名古屋城本丸御殿

なごやじょうほんまるごてん(Nagoya Castle Honmaru Palace)

【C-AC001b】探訪日:2018/4.22・2022/3.5

【C-AC001b】名古屋城本丸御殿 愛知県名古屋市中区本丸1

【MAP】

〔駐車場所〕

   1609(慶長14)年、徳川家康は9男・義直の尾張藩の居城として名古屋城を築くことを定め、翌年閏2月、天下普請で開始された。そのうち本丸御殿の建築は、1612(慶長17)年正月から始まり、完成したのは1615(元和元)年2月である。唐破風の車寄から入ると式台があり、奥に玄関がある。ほかに中之口部屋,表書院,対面所,上洛殿,湯殿書院,黒木書院,上御膳立所,下御膳立所などの13棟の殿舎が建ち並ぶ(慶長の完成当初は中之口部屋,表書院,対面所)。建築材として木曽ヒノキが用いられ、欄間,飾り金具,壁画など当時の技術・美術の粋が集められた。
 1617(元和3)年に二の丸御殿が完成すると義直はそちらへ移り、本丸御殿は将軍上洛時の御成御殿とされた。そして、1626(寛永3)年に大御所・徳川秀忠、1634(寛永11)年に将軍・徳川家光が上洛の途中で立ち寄っている。特に家光の御成の際は大々的に増改築された。だが、その後長い間将軍の御成は無く、1865(慶応元)年に14代将軍・徳川家茂が上洛途中に1泊している。藩主でさえも宿泊はできなかったという。
 1870(明治3)年、徳川慶勝は新政府に対して名古屋城の破却を申し出たが、ドイツ公使マックス・フォン・ブラントと日本陸軍の訴えにより、城郭とともに本丸御殿も保存されることとなった。明治時代、城内には陸軍の東京鎮台第三分営が置かれ、その後、本丸は宮内省に移管されると名古屋離宮と称した。1930(昭和5)年、名古屋離宮が廃止され、宮内省から名古屋市に下賜された。
 本丸御殿は1891(明治24)年の濃尾大地震にも大きな被害を受けることはなかったが、1945(昭和20)年5月14日の名古屋大空襲で焼夷弾の直撃を受けて焼失した。幸いにも障壁画のうち移動可能な襖などは取り外して御深井丸の乃木倉庫に収められていたため焼失を免れている。
 1990年代中頃から2000年代初にかけて本丸御殿復元の気運が高まり、2009(平成21)年1月19日、復元工事に着手。2017年(平成29)年度に工事完了し、2018(平成30)年6月8日より一般公開された。保管されていた襖絵や江戸時代の藩士が記録した詳細な図面、明治から昭和にかけての多くの写真,実測図などの第一級史料からほぼ忠実な復元が可能であった。
 現在は、中之口部屋は観覧者用玄関に、濃尾地震後の改造でそれ以前の内装が不明となった上台所はミュージアムショップになっている。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】・旧本丸御殿障壁画 331面(附16面)
     ・旧本丸御殿天井板絵 331面(附369面)

            附指定を含めて計1,047面

関連時代 江戸時代:前期 江戸時代:後期 昭和時代:前期 昭和時代:後期
関連年号 1612年・1615年・1626年・1634年 1865年 1930年・1945年 2009年・2018年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
徳川家康 TG01 徳川義直 TG11 徳川秀忠 TG02
徳川家光 TG03 徳川家茂 TG06 徳川慶勝 TG12


【C-AC001b】名古屋城本丸御殿
 


【C-AC001b】名古屋城本丸御殿


御殿の構成(名古屋城ホームページより)

【C-AC001b】名古屋城本丸御殿 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

玄関車寄 玄関車寄 表書院 左が上洛殿(後方に小天守閣と天守閣) 表書院 上台所 対面所(右は上台所) 左(白壁):中之口部屋、右:下御膳所 左から下御膳所,対面所,孔雀之間,上台所(瓦屋根) 上台所越しの天主閣と小天守閣 玄関二之間 玄関二之間 玄関二之間 玄関二之間 玄関一之間 玄関一之間 表書院三之間 表書院三之間 表書院一之間 表書院一之間 表書院上段之間 表書院上段之間 表書院上段之間帳台構 対面所納戸一之間 対面所次之間 対面所次之間 対面所上段之間 対面所上段之間 上洛殿三之間 上洛殿三之間 上洛殿三之間の欄間 上洛殿三之間の天井 上洛殿二之間 上洛殿一之間 上洛殿上段之間 上洛殿上段之間 上洛殿上段之間 上洛殿廊下の欄間 上洛殿廊下の欄間 【転載】黒木書院 湯殿書院 梅之間