久野城跡

くのじょうあと (Kuno Castle Ruins)

【C-SZ002】 探訪日:1990/11/12

2015/10/24

【C-SZ008】久野城跡 静岡県袋井市鷲巣1281 

【MAP】

〔駐車場所〕

【C-SZ008】久野城跡

   築城年代は定かではないが、明応年間(1492~1501年)に久野宗隆によって築かれたとされる。城は、南に向かって突き出した丘陵の最先端部にあたる比高10mほどの小さな丘の上に築かれている。丘の頂上部に本丸を置き、その周りに二の丸,三の丸,北の丸,東の丸を、さらに丘を取り巻く微高地に西の丸,南の丸を配し、周囲には堀が設けられている。
 今川氏が遠江を支配するようになると、久野氏もその傘下に入り、宗隆の嫡子・久野元宗は1560(元禄3)年、今川義元に従って桶狭間合戦に従軍して討死した。跡を弟の宗能が継いだ。1572(元亀3)年10月には、西上する武田軍に攻められている(この頃は徳川方)。
 1590(天正12)年、徳川家康が関東へ転封となると、宗能も下総国佐倉に一万三千石で転封となった。その後、松下之綱が遠江国頭蛇寺城より一万六千石で入封したが、1603(慶長8)年に重綱の時に、幕府に無断で石垣を築いた罪によって常陸国小張に転封となる。一方、久野氏は1596(慶長元)年に嫡子の宗朝が遺恨のある三宅弥次兵衛を斬り、自身も死んだため、いったんは所領没収となったが、、かつての勲功が認められ、松下重綱に替わり久野宗能が旗本として旧領へ戻った。
 その後、1619(元和5)年の宗成の時、徳川頼宣の重臣となって和歌山へ移り、下野国富田より北条氏重が一万石で入封したが、1644(正保元)年に廃城となった。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 戦国時代 安土桃山時代 江戸時代:前期
関連年号 1492~1501年・1572年 1590年 1603年・1619年・1644年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
久野宗隆 F022 久野元宗 F022 久野宗能 F022
松下之綱 G744 松下重綱 G744 久野宗朝 F022
北条氏重 H147

 

【C-SZ008】久野城跡
 

 

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▲遠景

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▲大手

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▲案内板

【C-SZ008】久野城跡

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▲東の丸

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▲本丸へ

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▲本丸

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▲本丸

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▲井戸

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▲二の丸

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▲高見

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▲三の丸

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▲北の丸

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▲南の丸

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▲西の丸

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▲堀跡

【C-SZ008】久野城跡

▲隅櫓跡

【C-SZ008】久野城跡

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▲土塁

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▲土塁