悟渓宗頓墓所〔瑞龍寺〕

ごけいそうとん ぼしょ〔ずいりょうじ〕(Grave of Gokei Soton [in Zuiryo-ji Temple])

【K-GF024】探訪日:2024/2.8

【K-GF024】悟渓宗頓墓所 岐阜県岐阜市寺町

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-GF024】悟渓宗頓墓所

   1500(明応9)年10月9日、妙心寺四派の一つである東海派の開祖となった臨済宗の僧・悟渓宗頓の墓所である。瑞龍寺の山門の西側にある。墓には墓石はなく、高さ約40cmほど土盛りされている。
 尾張国丹羽郡南山名村に生まれ、出家後、瑞泉寺(愛知県犬山市)で妙心寺四祖の日峰宗舜に師事して本格的な修行に励む。その後、愚渓寺(岐阜県可児郡御嵩町)の義天玄承,汾陽寺(岐阜県関市武芸谷)住持の雲谷玄祥、大樹寺(三重県四日市市市場町)住持の桃隠玄朔の下に参禅し、京都に移ってからは龍安寺の住持で、妙心寺六祖の雪江宗深に就いて印可を得た。宗深から「悟渓」の名を与えられた。
 1467(応仁元)年、戦火を避けて瑞泉寺に戻り、臥龍庵に住する。1468(応仁2年)に斎藤妙椿の招きにより、土岐成頼の菩提寺である瑞龍寺を建立した。1471(文明3)年に大徳寺52世住持となり、1480(文明12)年に再び大徳寺に住した。1484(文明16)年には景川宗隆の後任で妙心寺11世住持となり、東海庵の開祖となる。晩年は瑞龍寺に戻り法嗣を育成し、また瑞泉寺に住まい、徳林寺(愛知県丹羽郡大口町)の開祖ともなった。1497(明応6)年、勅して大興心宗禅師の号を賜い、1500(明応9)年に瑞龍寺済北院で没した。後に仏徳広通国師と諡された。残されたその法語は後に『虎穴録』としてまとめられている。

【史跡規模】

【指 定】岐阜県指定史跡(1972年3月17日指定)

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1500年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
悟渓宗頓 ****

 

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