福住中定城跡

ふくすみなかさだじょうあと(Fukusumi Nakasada Castle Ruins)

【C-NR041】探訪日:2025/3.30・5.8

【C-NR041】福住中定城跡 奈良県天理市福住町6882

【MAP】

〔駐車場所〕五大力明王が祀られている区画に駐車できる。

【C-NR041】福住中定城跡

   築城年は定かではないが、室町時代に福住氏によって築かれた。福住氏は1384(至徳元/元中元)年の『長谷川流鏑馬日記』にも名が出る国民であり、福住城は1434(永享6)年に筒井城と並んで『興福寺賢聖院経巻奥書』にその名が出てくる。筒井順永の兄・大東(実順?)が福住氏を継いでからは、筒井一族として栄えていた。応仁の乱では、福住氏と筒井氏の軍勢が福住城に駐屯した。
 戦国時代には、福住氏は筒井氏に従い、筒井順慶と松永久秀との抗争時、順慶はこの福住に拠っている。1569(永禄12)年、筒井順慶が松永久秀に筒井城を落とされ、福住城に逃走して滞在中の1570(元亀元)年6月9日に松永軍が福住城を攻撃した。この頃には、1481(文明13)年に築かれた東の福住井之市城が本城となっており、そちらが主戦場となったが、福住中定城も筒井氏によって改修が進められており、機能していたとされる。
 また、1608(慶長13)年、伊賀国上野の筒井定次が改易となり筒井家嫡流が途絶えると、従兄弟の福住正次が筒井定慶と名乗りを替えて大和郡山一万石で存続を許された。しかし、1615(慶長20)年、大坂夏の陣が始まると、その緒戦で大坂方の軍勢が郡山城へ押し寄せ、筒井定慶はわずか1,000程度の兵であったため、郡山城を脱して福住中定城へと退いた。戦後、この敵前逃亡を恥じて自刃したという。
 福住中定城は標高520m,比高20mほどの丘陵にあり、南北約150m,東西約110mのほぼ長方形の主郭とその南東部に付属する2つの曲輪が基本構造となっている。主郭の北側半分は平坦地で、方形館の様相となっており福住中定城の中枢部である。主郭には西を除く三方に堀が巡り、北辺には高さ3m,幅約7mの分厚い土塁が付いている。この土塁の西側先端部分は北側へ約3m張り出しており、横矢掛けを意識したものと考えられる。この張り出しの下部は堀切となっている。主郭の南東側に付属曲輪(神社が祀られている)があり、主郭側の空堀に面して土塁が付いている。現在の山道はこの神社に向かって取り付けられているが、本来は北側から主郭東下の横堀へと道が付き、さらに付属曲輪側へ折れて主郭の南東側から入るようになっていた。付属曲輪は、主郭の虎口の前面で、大手,搦め手を監視する位置にあり、主郭を防御する前衛的な曲輪と考えられている。
 福住中定城は、丘頂を削平し方形館を中心とした応仁の乱期の城郭と、後に周辺を空堀で囲み、曲輪縁辺に土塁をつけた戦国期の普請との二段階から成り立っているといえる。

【史跡規模】

【指 定】 

【国 宝】  

【国重文】

関連時代 室町時代 戦国時代 江戸時代:前期
関連年号 1434年 1570年 1615年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
福住宗職 FS01 筒井順慶 MW21 福住正次(筒井定慶) MW21

 

【C-NR041】福住中定城跡
 先々月に訪れたが、南西部のみを見て主郭と捉えていたため再度訪れることにした(前回、説明板も北の大土塁も見ていなかった)。さらに、前回は曲輪から横堀を見下ろしていたが、実際に下へ下りてぐるりと巡ると、その迫力は想像以上のものであった。

 

【C-NR041】福住中定城跡

福住中定城縄張り図(「奈良の城郭」サイトより転載加筆)

【C-NR041】福住中定城跡 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

駐車場 五大力明王を祀る(駐車場内) 駐車場のすぐ西にある登城口 小さな案内板が立つ 城門跡 付属曲輪(副郭)への登り道 主郭南東の付属曲輪に出る 付属曲輪(副郭) 付属曲輪北側の土塁 付属曲輪北側の土塁上 付属曲輪北側の横堀を土塁上から見る 横堀を西から見る 東側へ下りるところ 付属曲輪後方の横堀 主郭(南側)へ入る 主郭南区画 主郭南西部 主郭南西部 主郭南西部 主郭南西部から北へ向かう 主郭 主郭 主郭 北側の大土塁 土塁を上がったところ 土塁の西側へ下りたところ 土塁の西側 下の横堀を見る 北側土塁の東側より下へ下りて横堀を反時計回りにめぐる 主郭東下の横堀 石積みがある(後世のものかもしれないが) 主郭西側の横堀 北西部 主郭西側 南西部 南にある土塁 南にある土塁 付属曲輪下の道を北(主郭東下)へ進む 石積みがある 竪堀(笹で見えないが) 主郭の切岸 主郭の東下(左上が大土塁の辺り)