太原雪斎墓所〔臨済寺〕

たいげんせっさい ぼしょ〔りんさいじ〕(Grave of Taigen Sessai [in Rinsai-ji Temple])

【K-SZ066】探訪日:2025/4.12

【K-SZ066】太原雪斎墓所 静岡県静岡市葵区大岩町7-7

【MAP】

〔駐車場所〕臨済寺の参詣者用駐車場がある。

【K-SZ066】太原雪斎墓所

   1555(弘治元)年閏10月10日(11月23日)、享年60で駿河長慶寺にて死去した臨済宗の禅僧・太原雪斎(太原崇孚)の墓所である。墓は臨済寺のほか、長慶寺,善得寺跡(善得寺公園)にもある。
 父(庵原城主・庵原政盛),母(興津横山城主・興津正信の娘)の両家とも今川氏の譜代の重臣で、雪斎が駿河富士山麓の善得院(現在の臨済寺)に入寺し、今川義元(幼名:芳菊丸)の教育係を務めた。後に京都五山の建仁寺で修行をしていたが、この頃から秀才として将来を嘱望されていたと言われる。
 1530(享禄3)年、芳菊丸は得度の儀式を行い、承芳と名を改めるが、1536(天文5)年に兄の今川氏輝が死去すると、異母兄の玄広恵探と栴岳承芳こと義元の家督争いが起こる。この時、雪斎は義元の家督相続に尽力し、花倉館に籠城した玄広恵探を攻め、自刃に追い込んだとされる(花倉の乱)。このため、還俗して家督相続を実現させた義元は雪斎を厚く信頼し、政治・軍事における最高顧問として重用した。
 雪斎は、1537(天文6)年、これまで悪化していた武田信虎との関係改善のため甲駿同盟を締結させる。1546(天文15)年10月、織田信秀の西三河侵入に対し松平広忠が救援を要請してきたのを機に、大軍を率いて西三河に介入し、三河小豆坂の戦い安祥城攻撃で織田氏の勢力を減退させ、今川氏の西三河の支配権を得た。安祥城の戦いでは織田信広を捕縛し、織田家に奪われていた人質の松平竹千代(のちの徳川家康)との人質交換を行っている。また、1554(天文23)年には甲相駿三国同盟(武田晴信,北条氏康との関係改善)の締結にも尽力した。
 僧侶としても1545(天文14)年に高僧を招いて駿府に臨済寺を開寺し、自らは2世住持となり、1550(天文19)年には京都妙心寺の第35代住持に就任するなど活躍している。駿河では善徳院と清見寺を中興し、今林寺,承元寺,葉梨長慶寺,庵原一乗寺が、遠州では定光寺が、三河では太平寺が興され、妙心寺派の普及がなされている。
 1553(天文22)年、今川家の分国法である今川仮名目録33か条の追加21箇条の制定にも寄与し、臨済宗を中心とした領内における寺社・宗教の統制や、在来商人を保護する商業政策なども行い、今川氏の最盛期に大きく貢献した。
 なお、同墓地には、今川氏輝墓所中村一氏墓所もある。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1555年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
太原雪斎 **** 今川義元 G361 松平竹千代(徳川家康) TG01

 

【K-SZ066】太原雪斎墓所
 

 

【K-SZ066】太原雪斎墓所

【K-SZ066】太原雪斎墓所 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)