久能山城跡

くのうざんじょうあと(Kunozan Castle Ruins)

【C-SZ164】探訪日:2025/4.12

【C-SZ164】久能山城跡 静岡県静岡市駿河区根古屋

【MAP】

〔駐車場所〕久能海岸側に多くの有料駐車場がある。また、日本平ロープウェイ駐車場に停め、ロープウェイで久能山に来ることもできる。

   久能城,久能寺城ともいう。本格的築城は、1568(永禄11)年12月の武田信玄の駿河侵攻の際である。今川氏真は掛川城へ奔ったが、小田原北条氏の救援の軍に備えて補強した。古来、名刹・久能寺があったが、寺院は城郭としても利用されてきた。南北朝時代には南朝方の入江駿河守が引き籠った。1536(天文5)年には、花倉の乱で栴岳承芳(のちの今川義元)方に敗れた玄広恵探(義元の庶兄)方が一時引き籠ったという。
 信玄は、久能寺を北矢部の妙音寺(現・静岡市清水区の鉄舟寺)に移し、普請に取り掛かり、翌1569(永禄12)年4月、板垣信安と今福浄閑斎・昌和父子に守備を命じた。
 1581(天正9)年、徳川家康の駿河侵攻に備え、武田勝頼は今福昌和に城の改修を命じるが、翌1582(天正10)年3月に江尻城主の穴山梅雪が家康に降伏すると、久能山城もともに開城した。
 武田氏滅亡後、家康は松平勝秀を入城させた。1590(天正18)年、家康の関東移封に伴い秀吉恩顧の中村一氏が駿府城に入ると、その管轄下に置かれた。さらに、関ケ原の合戦後、1606(慶長11)年に駿府に戻った家康は、榊原清政,照久に守備させた。1616(元和2)年、家康が駿府城で没すると、その遺言により久能山に葬られたため(久能山東照宮)、城は廃城となる。
 久能山城は有度山から南に延びる標高215m,比高207mの尾根先端に位置し、駿河湾を望む峻険な要害地であり、『甲陽軍鑑』には岩殿城(山梨県),岩櫃城(群馬県)と並び、信玄の三名城とされ、籠城に適した城とされている。城域は東西190m,南北440mと、駿河国では最大級の山城である。中央の谷状鞍部地形を挟んで大きく東西に分かれた一城別郭式で、大手枡形虎口を入ると、東(旧宝物殿の辺り)に大手曲輪がある。そこには勘介井戸が残る。本曲輪はその北東(楼門を入り鼓楼,稲荷神社,神楽殿辺り)にあったとされ、人質曲輪(社務所の辺り)を挟んで、西(ロープウェイ駅辺り)に二の曲輪があった。北方最高部の愛宕曲輪(愛宕神社辺り)は物見・狼煙台と考えられる。愛宕曲輪の西の段状地形も曲輪とみられている。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 南北朝時代 戦国時代 安土桃山時代 江戸時代:前期
関連年号 1536年・1568年・1582年 1590年 1606年・1616年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
入江駿河守 F0** 玄広恵探 G360 武田信玄 G433
板垣信安 G426 今福浄閑斎 G488 今福昌和 G488
徳川家康 TG01 松平勝秀 NT42 中村一氏 H487
榊原清政 G374 榊原照久 G374

 

【C-SZ164】久能山城跡
 

 

【C-SZ164】久能山城跡

 

久能山城縄張図(『静岡県の城跡 中世城郭縄張図集成(中部・駿河国版)』に加筆)

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南からの遠景(虎口[一の門]が見える) 虎口(一の門) 虎口(一の門) 右上が大手曲輪 大手曲輪跡(勘介井戸が見える) 大手曲輪跡 馬出曲輪跡 楼門をくぐったところが本曲輪跡 久能稲荷神社・厳島神社(もともとは本曲輪跡) 鼓楼(もともとは本曲輪跡) 神庫(もともとは本曲輪跡) 神廟(正面遠方に段曲輪、北方面遠方に愛宕曲輪がある)