徳川家康廟所〔久能山東照宮〕
とくがわいえやす びょうしょ〔くのうざんとうしょうぐう〕(Mausoleum of Tokugawa Ieyasu [in Kunozan Toshogu Shrine])
【K-SZ069】探訪日:1988/4.17・2025/4.12
静岡県静岡市駿河区根古屋389
【MAP】
〔駐車場所〕久能海岸側に多くの有料駐車場がある。また、日本平ロープウェイ駐車場に停め、ロープウェイで久能山に来ることもできる。
1616(元和2)年4月17日巳の刻(午前10時頃)、駿府城にて75歳(満73歳4ヶ月)で死去した徳川家康の遺体が最初に埋葬された久能山の廟所である。2代将軍・徳川秀忠によって5月から東照社が着工され、1617(元和3)年12月に創建された。この間、朝廷から家康に神号「東照大権現」が宣下され、1645(正保2)年11月には朝廷から東照社に宮号「東照宮」が宣下され、「久能山東照宮」の通称が成立した。
創建当初は木造桧皮葺の造りであったが、1640(寛永17)年に3代将軍・徳川家光により現在の石造宝塔に造替された。「神廟」ともいう。宝塔の高さは、5.5m,外廻り約8m、前面に唐戸があり、軒の四隅に唐銅の風鐸が掛けられている。家康の遺命により西向きに建てられている。西の方には、両親が子授け祈願の参籠をされたという鳳来寺、さらにその西に岡崎の松平家の菩提寺大樹寺,家康(竹千代)誕生の地・岡崎城がある。また、その延長線は京の都へと続いている。
一周忌を経てのち、遺言通り、関東平野の最北部にある日光の東照社に分霊された(寛永寺,増上寺には墓所はない)。
家康の死因については、長く鯛の天ぷらによる食中毒説が一般化されてきたが、1月21日に食してから死去までの日数がかかり過ぎていることから、食中毒を死因とするには無理があった。現在では症状からみて胃癌説が最有力視されている。
また、幕府は、大名・旗本に対して家康弔問のための下向は無用と伝え、寺院に対しても法事を行う増上寺以外の法要は不要の旨を伝達している。殉死についても家康自身は嫌い禁じており、このため名のある者の殉死はなく、古くから仕えた老齢の小者2人が殉死したという逸話がある。
『東照宮御実記』が伝えるところでは、2首を辞世として詠んでいる。
嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空
先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】神廟(1955年6月22日指定) |
関連時代 | 江戸時代:前期 |
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関連年号 | 1616年・1640年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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