三井岡原古墳(伝・山背大兄王墓所)

みついおかはらこふん(でん・やましろのおおえのおうぼしょ)(Mitsuiokahara Kofun Tumulus [Legendary Grave of Prince Yamashiro no Oe])

【K-NR030】探訪日:1994/8.10・2025/9.7

【K-NR030】三井岡原古墳 奈良県生駒郡平群町椿井1278

【MAP】

〔駐車場所〕

   法輪寺の南東の「岡の原」と称される丘陵頂上に位置する直径約30mの円墳である。かつて山背大兄王の墓所とする伝承があったことから、宮内庁により「富郷陵墓参考地」に治定されたが、考古学的には当該時期の古墳が丘陵頂部に築造される例はほとんどないことから、否定的な見解が強い。築造時期も古墳時代中期の5世紀代と推定される。山背大兄王の墓について、近年では、江戸時代の『大和名所記』『和漢三才図会』に記された位置や築造時期,墳丘規模,石室規模から、生駒郡平群町にある西宮古墳を真墓とする説が挙げられている。
 山背大兄王は厩戸皇子と蘇我馬子の娘・刀自古郎女の子で、蘇我入鹿とは従兄弟に当たる。推古天皇の病死後、その後継問題が発生し、蘇我境部摩理勢らは山背大兄王を擁立するも、蘇我蝦夷の擁立する田村皇子が継承することとなり、629年に即位(舒明天皇)する。
 蘇我氏の実権が蝦夷の息子の蘇我入鹿に移ると、入鹿は母が蘇我馬子の娘であり、舒明天皇の嫡子でもあった古人大兄皇子の擁立を企て、その中継ぎとして皇極天皇を擁立した。このため、山背大兄王と蘇我氏の関係は決定的に悪化した。
 皇極天皇2年11月1日(643年12月20日)、ついに蘇我入鹿は巨勢徳多,土師猪手,大伴長徳および100名の兵に、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させる。山背大兄王の奴三成と舎人10数人が矢で土師娑婆連を殺し、馬の骨を残し一族と三輪文屋君(敏達天皇に仕えた三輪君逆の孫)、舎人田目連とその娘,菟田諸石,伊勢阿倍堅経らを連れ斑鳩宮から脱出し、生駒山に逃亡した。家臣の三輪文屋君は、東国に難を避け、そこで再起を期して入鹿を討つべしと進言するが、山背大兄王は戦闘を望まず、結局、山背大兄王は生駒山を下り斑鳩寺に入り、11月11日(12月30日)に妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、上宮王家はここに絶えることとなる。蘇我蝦夷は、入鹿が山背大兄王を殺害したことを聞き、激怒したという。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】

【国重文】

関連時代 古墳時代:中期
関連年号 5世紀代
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
山背大兄王 K303


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【K-NR030】三井岡原古墳

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