法輪寺

ほうりんじ(Horin-ji Temple)

【T-NR026】探訪日:1994/8.10・2025/9.7

【T-NR026】法輪寺 奈良県生駒郡斑鳩町三井1570

【MAP】

〔駐車場所〕参詣者用駐車場がある。

【T-NR026】法輪寺

   聖徳宗の寺院、山号は妙見山。薬師如来を本尊とする。三井寺とも呼ばれ、「法林寺」「法琳寺」とも表記する。
 創建については、『日本書紀』や『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』には記載がなく、不明な点が多いが、発掘調査の結果等から、7世紀中頃には存在していたことは間違いない。法隆寺再建伽藍に近い瓦と、それより一段階古い瓦とが出土している。また、前身建物の遺構とみられる掘立柱穴や溝も検出されており、創建は飛鳥時代末期、7世紀中頃までさかのぼると考えられている。
 創建については、古くから2つの説がある。1つの説は『聖徳太子伝私記』(嘉禎4年・1238年、顕真著)に見えるもので、聖徳太子の子・山背大兄王が太子の病気平癒を祈るため、622(推古天皇30)年に建てた、とする。今一つの説は『上宮聖徳太子伝補闕記』(平安時代前期成立)および『聖徳太子伝暦』(延喜17年・917年、藤原兼輔著)に見えるもので、創建法隆寺の焼失後、百済の開法師,円明法師,下氷新物の3人が建てたとするものである。これらの人物の名前については、聞法師,円明師,下氷君雑物とも伝わるが、いずれの人物も伝記は不明である。
 1367(貞治6)年正月3日、炎上する。これ以降、寺勢は振るわなくなり、1645(正保2)年には台風に罹災し三重塔を除く建造物が倒壊した。江戸時代にはめぼしい建物は三重塔くらいであった。
 享保年間(1716~36年)に入ると、寶祐上人によって妙見信仰に力が入れられて伽藍の復興が行われ始め、1731(享保16)年に妙見堂が再建された。1760(宝暦10)年に三重塔が修復されると、次いで翌年には金堂,講堂,南大門が再建された。
 1903(明治36)年、国宝に指定されていた三重塔が解体修理される。しかし、1944(昭和19)年7月21日、三重塔が落雷により焼失した。これは太平洋戦争中の金属類回収令で避雷針が撤去されていたためである。焼失した塔は、近隣の法隆寺,法起寺の塔とともに斑鳩三塔と呼ばれ、7世紀末頃の建立と推定される貴重な建造物であった。
 1950(昭和25)年の法輪寺発掘調査では、創建当時は東に金堂、西に塔が建つ法隆寺式の伽藍配置で、平面規模は法隆寺の3分の2であったことが分かった。その後、法隆寺が法相宗から独立して聖徳宗を設立すると、法起寺も聖徳宗に宗旨を改める。
 1975(昭和50)年に三重塔が再建されたが、世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」には含まれていない。
 なお、三井寺という別名は、当寺のある三井の地名に由来し、付近に聖徳太子ゆかりといわれている3つの井戸があったところから来ている(3つの井戸のうちの1つが現存し、国の史跡に指定されている)。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】木造薬師如来坐像    ・木造虚空蔵菩薩立像

     ・木造十一面観音菩薩立像 (講堂本尊で像高3.5mを超える巨像・平安時代の作)
     ・木造弥勒菩薩立像(聖観音立像)
     ・木造地蔵菩薩立像    ・木造吉祥天立像
     ・龍鬢褥(推古天皇使用の敷物と伝わる)
     ・塔心礎納置銅壺     ・多宝塔文磬
     ・鴟尾残欠(飛鳥時代中期の代表的な鴟尾)

関連時代 飛鳥時代 江戸時代:中期 昭和時代:前期 昭和時代:後期
関連年号 622年・670年 1716~36年 1944年 1975年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
山背大兄王 K303 百済開法師 **** 円明法師 ****
下氷新物 **** 寶祐上人 ****


【T-NR026】法輪寺  
 


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南大門 三重塔 塔心礎(複製) 金堂 講堂(収蔵庫) 妙見堂