法観寺(八坂の塔)
ほうかんじ(やさかのとう)(Hokan-ji Temple [Yasaka Pagoda])
【T-KT034】探訪日:2003/10.16・2025/10.13
京都府京都市東山区清水八坂上町388 <📲:075-551-2417>
【MAP】
〔駐車場所〕
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臨済宗建仁寺派の寺院で山号は霊応山。本尊は五智如来。寺伝によれば、589(崇峻天皇2)年、如意輪観音の夢告によって教示された厩戸皇子が五重塔を建立して仏舎利を納めたと伝える。古代には八坂寺と称され、五重塔は現在は通称「八坂の塔」と呼ばれている。
ただ、厩戸皇子開基説については、いずれの史料も中世前期の記録であり信憑性には疑義がある。2009(平成21)年の調査では、7世紀に製作された塼仏や礎石および古代瓦などの遺跡が発掘されたことで、その創建については平安京遷都以前の飛鳥時代にまでさかのぼる古い寺院であることが確認されている。出土する瓦の年代から天武朝創建の可能性が高いという。当時は官寺に準じる扱いをうけていたと思われる。創建時の伽藍配置は不詳であるが、四天王寺式伽藍配置説と法隆寺式伽藍配置説の2説があり決着していない。造営に関しては、高句麗から渡来して八坂郷に定着し、平安時代に八坂造となった氏族がその推進者であったとの見方が有力である。
その後、寺勢は衰えたが、1240(仁治元)年に建仁寺8世の済翁証救が入寺して中興し、臨済宗建仁寺派に属する禅寺となった。
現存する五重塔は三度の火災で焼失した後の1440(永享12)年に将軍・足利義教の援助により再建された。最初の焼失は平安時代末期の1179(治承3)年、清水寺と祇園社(八坂神社)の抗争に巻き込まれたもので、1191(建久2)年に源頼朝の援助により再建。その後、1291(正応4)年に落雷で焼失し、1309(延慶2)年に後宇多天皇の援助で再建された。三度目は、1436(永享8)年の東山地域での大火による焼失した。
塔の高さは46mで東寺,興福寺の五重塔に次ぐ高さをもつ純和様、本瓦葺の建築である。中心の礎石は創建当初のものが残っておりそのまま使われている。初層内部には大日如来を中心とする本尊・五智如来像を安置する。縁,高欄が五重目にしか付いていない珍しい建築様式である。
戦国時代には、地方から上洛した大名が八坂の塔に定紋入りの旗を掲げることによって、誰が新しい支配者・天下人になったかを世人に知らせたという。また、大島光義が豊臣秀次の命でこの塔の窓に矢を十本射込んで見せたという。
現在の寺域は狭小であるが、境内には薬師堂,太子堂(ともに京都市指定有形文化財),八坂稲荷神社や木曾義仲首塚(朝日塚),藤原数子の墓がある。