飛鳥寺

あすかでら (Asuka-dera Temple)

【T-NR001】探訪日:1992/10/31・2006/5/17

【T-NR001】飛鳥寺 奈良県高市郡明日香村大字飛鳥682 <📲:0744-54-2126>

【MAP】

〔駐車場所〕

【T-NR001】飛鳥寺

   『日本書紀』によると、飛鳥寺(法興寺)は587年に蘇我馬子が建立を発願したものである。馬子は排仏派の物部守屋と対立し、守屋との戦いに際して勝利を祈念して飛鳥の地に寺を建てることにしたという。一方、『元興寺縁起』には、当時の日本には善信尼,禅蔵尼,恵善尼の三尼がおり尼寺のみがあったが、法師寺(僧寺)と僧がなかったため、法師寺を作り百済僧を招いて受戒させるべく、用明天皇が後の推古天皇と聖徳太子に命じて寺を建てるべき土地を検討させたという。
 588年、百済から日本へ僧と造寺の技術者が派遣され、同年、飛鳥の真神原の地にあった飛鳥衣縫造祖樹葉の邸宅を壊して法興寺の造営が始められた。596年に寺の中心的存在で仏舎利を祀る塔が完成し、馬子の子の善徳が寺司となり恵慈(高句麗僧)と恵聡(百済僧)の2名の僧が住み始めたとされる。本格的な伽藍を備えた日本最初の仏教寺院である。なお、本尊の釈迦三尊像(鞍作止利の作)は造立発願605年,完成609年とされ、その間、本尊は存在しなかったということになる。この点に関しては、この本尊は東金堂と中金堂の本尊とする説(二期造営説)や蘇我馬子所持の弥勒石像が当初の中金堂本尊で後に鞍作止利作の釈迦三尊像が本尊になったとする説(本尊交代説)がある。
 飛鳥寺には複数の呼称がある。法号は「法興寺」または「元興寺」であり、平城遷都とともに今の奈良市に移った寺は「元興寺」と称する。一方、蘇我馬子が建立した法興寺中金堂跡に今も残る小寺院の公称は「安居院」である。
 飛鳥寺の伽藍は、昭和の発掘調査の結果、当初の飛鳥寺は中心の五重塔を囲んで中金堂,東金堂,西金堂が建つ一塔三金堂式の伽藍であることが確認された。一塔三金堂を回廊が囲み、回廊の南正面に中門がある。講堂は回廊外の北側に位置し、仏の空間である回廊内の聖域と、僧の研鑚や生活の場である講堂その他の建物を明確に区切っていたことが窺われる。以上を囲むように築地塀が回り、中門のすぐ南には南門、西側には西門があったことも判明している。
 飛鳥寺は中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの場や645年蘇我氏討伐(乙巳の変)の本陣になるなど、朝廷との強い関係性が窺われ、この頃までには蘇我氏の氏寺の域を超えて国家の寺,仏教隆昌の中心地としての実力を備えていたと考えられる。 文武天皇の時代には大官大寺,川原寺,薬師寺と並ぶ四大寺の一つとされて官寺並みに朝廷の保護を受けるようになった。
 都が平城京へ移るとともに、718(養老2)年に飛鳥寺も現在の奈良市に移転し元興寺となった。飛鳥の元の寺も本元興寺と称して存続し、平安時代にいたっても朝廷から南都七大寺に次ぐ扱いを受けていたことが記録に残るが、887(仁和3)年には火災に遭い、次第に衰退していった。1158(保元3)年には飢饉に窮して百済伝来の弥勒菩薩石像を多武峰山妙楽寺(談山神社)に売り払った。また、1196(建久7)年には雷火で塔と金堂を焼失し、以後室町時代以降は廃寺同然となってしまった。
 江戸時代に入り、1632(寛永9)年に今井の篤志家によって仮堂が建てられ、ついで1681(天和元)年に僧・秀意が草庵をつくり安居院と号し、傷んだ釈迦如来像を補修したとされる。1772(明和9)年の本居宣長の日記には、当時の飛鳥寺は「門などもなく、かりそめなる堂に本尊釈迦如来像が安置されるのみ」だったという。
 やがて、近世中頃から名所記や地誌に名が挙げられるようになり、梵鐘の鋳造(昭和に軍に供出され現存せず)、「飛鳥大仏」の石碑が建てられ、1826(文政9)年には大坂の篤志家の援助で現本堂の再建など法灯を守る努力が重ねられてきた。
 主な出土品として、塔心礎納置品と瓦が挙げられる。593年、塔心礎に仏舎利が埋納されたが、1196年に塔が落雷で焼失し、翌年に東大寺の僧・弁暁により塔の心礎から仏舎利と荘厳具が取り出され再び埋納された。これらの埋納物は、1957(昭和32)年の発掘調査で心礎周辺から出土し、出土品には、挂甲,馬鈴,玉類などの古墳副葬品に共通するものが多い一方で、金銀の延板など奈良時代の寺院の鎮壇具に共通するものも含まれており、古墳時代と飛鳥時代の両方の特色をもっている。これら出土品は日本最古の仏塔の心礎に埋納された遺物として貴重なものである。瓦の技術者としては588年に百済から四種の技術分野の8名が渡来したことが知られる。彼らは建築用材が調達される591年までに造営技術者や工人の養育養成を行った。飛鳥寺の寺域から出土している瓦当(軒丸瓦の先端の円形部分)の素弁蓮華文の文様は「花組」「星組」と通称される2系統に分類され、飛鳥寺創建期の瓦を製作した工人集団には2つの系統があったことを意味している。
 なお、当寺の西には蘇我入鹿の首塚がある。

【史跡規模】

【指 定】国指定史跡(1966年4月21日指定)
【国 宝】
【国重文】銅造釈迦如来坐像:本堂安置

関連時代 古墳時代 飛鳥時代 奈良時代 鎌倉時代 江戸時代:前期
関連年号 587年 596年・609年 718年 1196年 1632年・1681年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
蘇我馬子 SG02 用明天皇 K302 推古天皇 K302
厩戸皇子 K303

飛鳥衣縫樹葉

**** 蘇我善徳 SG02
鞍作止利 **** 中大兄皇子 K306 中臣鎌足 F001
秀意 ****

 

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▲本堂とその前の金堂礎石

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▲西門跡,左手前は蘇我入鹿首塚

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▲【転載】塔跡(塔心礎中心)

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