脇坂安治陣跡〔関ヶ原古戦場〕

わきざかやすはる じんあと〔せきがはらこせんじょう〕(Encampment Ruins of Wakizaka Yasuharu [Historic Battlefield of Sekigahara])

【B-GF001b13】探訪日:2026/4.19

【B-GF001b13】脇坂安治陣跡 岐阜県不破郡関ケ原町藤下

【MAP】

〔駐車場所〕

   1600年(慶長5)年10月21日(9月15日)、関ヶ原の戦いにおける脇坂安治軍の陣跡である。約1,000の兵を率いた安治の陣は、東軍と内通の風聞があった小早川秀秋に備えて、朽木元綱,小川祐忠,赤座直保らと共に大谷吉継らの陣の東南、小早川秀秋軍の松尾山の北麓に配置されていた。しかし、脇坂安治自身も近江時代の人脈から藤堂高虎を通じ、家康に味方する所存であることを伝えていた。
 1600(慶長5)年6月、会津征伐では、安治は大坂に留まり、次男の安元が関東に下向し徳川方に参陣しようとしたが、途中で石田三成に遮られ止む無く、近江から大坂へ戻ることになった。安治も石田三成が挙兵したときは大坂に滞在していたため、やむなく約1,000名の兵を率いて西軍に付いたとされる。
 関ケ原での本戦当日、午前の動きはみられないが、午後に入り小早川隊が大谷吉継隊を攻撃すると、それに乗じて他の3将と共に東軍に寝返り、平塚為広・戸田勝成の両隊を壊滅させた。また、その後の石田三成の居城・佐和山城攻略にも従軍した。
 戦後処理では、事前に家康に意を伝えていた脇坂家は処分を受けずに所領安堵されたが、朽木元綱は減封、中村祐忠と赤座直保は改易の処分を受けている。安治は、東軍との仲介や旧領安堵の仲介をしてくれた藤堂高虎へ感謝し、川部貞秀の太刀を送っている。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 安土桃山時代
関連年号 1600年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
脇坂安治 FX01 朽木元綱 G745 小川祐忠 ****
赤座直保 **** 藤堂高虎 F795


【B-GF001b13】脇坂安治陣跡



【B-GF001b13】脇坂安治陣跡

<関ヶ原合戦 布陣図(開戦前)>

(現地パンフレットを一部編集)

<関ヶ原古戦場 関連史跡>

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