大谷吉継陣跡〔関ヶ原古戦場〕
おおたによしつぐ じんあと〔せきがはらこせんじょう〕(Encampment Ruins of Otani Yoshitsugu [Historic Battlefield of Sekigahara])
【B-GF001c08】探訪日:2026/4.19
岐阜県不破郡関ケ原町藤下
【MAP】
〔駐車場所〕陣跡南側の県道21号線側道(旧中山道)沿いに駐車場がある。
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1600年(慶長5)年10月21日(9月15日)、関ヶ原の戦いにおける大谷吉継軍の陣跡である。関ヶ原盆地と東山道を見下ろす高地(山中村の藤川台)にある。また、南の小早川秀秋陣営の動静も監視できる位置である。
関ヶ原の戦い開戦以前は、徳川家康の警護や石田三成の妄動を抑える行動をとっており、軍事行動には消極的であった。しかし、1599(慶長4)年末に発生した宇喜多騒動において、五奉行及び吉継に解決を任せたはずの家康自身が最終的に介入したことで、吉継らが家康に対する不信感を持ち始めたともいわれる。
ただ、1600(慶長5)年6月の家康による上杉討伐には、吉継も所領地や自らの蔵入地から兵を募り、7月に討伐軍に参加するべく敦賀を出発している。その途中、7月10日頃、石田三成の居城・佐和山城に立ち寄った際に三成から挙兵計画を聞かされる。吉継は「無謀」と三成を責めたとも吉継自身の意向ともいわれるが、吉継は三成の計画に同意し、西軍に参加を決意する。そして、吉継は会津に向かうはずだった予定を変更し、上方へと向かった。
7月18日、西軍が伏見城の攻撃を開始すると、吉継もこの戦いに参加した。8月1日、伏見城が落城し、吉継は敦賀に戻ると、脇坂安治,朽木元綱,赤座直保,小川祐忠,戸田勝成,平塚為広ら諸将を率い、北陸方面の平定を進めた。吉継は北国口の兵3万100の大将とされている。
8月21日、吉継は大坂に向かう途中で岐阜城(西軍側)陥落の報を聞いたため、23日に敦賀で進路を変え美濃に向かった。
9月初旬、山中村の藤川台に布陣する。この時、吉継の兵数は、大谷一族や戸田勝成・平塚為広の諸隊1,500人,脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の与力4,200人と合わせて5,700人であった。陣中にはこの他、織田信長の子・織田信吉と長次の兄弟、蜂須賀家政の重臣・高木法斎らが加わっていた。
9月15日、関ヶ原の戦いが始まるが、吉継は病(ハンセン病)の影響で陣中から動かず、輿に乗って軍の指揮を執ったとされる。午前中、吉継勢は東軍の諸将を相手に奮戦し、その攻防の応酬は6,7度に及んだと伝わる。
しかし、正午頃、懸念していた松尾山の小早川秀秋が東軍に寝返り、大谷隊を攻撃。吉継は初めから小早川隊の謀叛に備えていた直属の兵600で迎撃し、更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と合力して、兵力で圧倒する小早川隊を2,3回と繰り返し山へ押し戻したという。秀秋はこれを見て激怒し、自ら指揮を取って本隊を進めさせ、大谷隊と激戦に及んだ。このとき、吉継の与力であるはずの脇坂・朽木・小川・赤座の4隊が東軍に寝返り、大谷隊に横槍を仕掛けた。これにより、大谷隊は前から東軍、側面から脇坂らの内応諸隊、背後から小早川隊の包囲・猛攻を受け、防御の限界を超えて壊滅した。主だった家臣らは皆討死し、吉継もその場で自害し果てた。享年42(36とも)。吉継を介錯したのは、家臣の湯浅五助(隆貞)であった。陣跡から北へ320ⅿほど行った所に大谷吉継と湯淺五助の墓所がある。なお、西軍の諸将の多くが戦場離脱したが、戦場で自害したのは吉継のみである。
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【史跡規模】
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【指 定】 |
| 関連時代 | 安土桃山時代 |
|---|---|
| 関連年号 | 1600年 |
| 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
|---|---|---|---|---|---|
| 大谷吉継 | AW01 | 戸田勝成 | F5** | 平塚為広 | **** |
| 脇坂安治 | FX01 | 朽木元綱 | G745 | 小川祐忠 | **** |
| 赤座直保 | **** | 織田信吉 | OD04 | 織田長次 | OD04 |
| 高木法斎 | **** | 湯浅五助(隆貞) | FU15 |
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<関ヶ原合戦 布陣図(開戦前)>

(現地パンフレットを一部編集)
<関ヶ原古戦場 関連史跡>
| 西軍(戦力総数:80,000以上) | 東軍(戦力総数:74,000~104,000) | ||
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石田三成陣地・島左近陣跡・島津義弘陣跡・小西行長陣跡 |
桃配山(徳川家康最初陣跡)・床几場(徳川家康最後陣跡) |
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| 傍観軍 |
吉川広家陣跡・安国寺恵瓊陣跡・毛利秀元陣跡 |
反応軍 | 脇坂安治陣跡・小早川秀秋陣跡 |
| 開戦地・決戦地 | |||
| 西首塚・東首塚 | |||