大谷吉継・湯淺五助墓所〔関ケ原古戦場〕

おおたによしつぐ・ゆあさごすけ ぼしょ〔せきがはらこせんじょう〕(Graves of Otani Yoshitsugu and Yuasa Gosuke [Historic Battlefield of Sekigahara])

【K-GF027】探訪日:1990/6.3・2026/4.19

【K-GF027】大谷吉継・湯淺五助墓所 岐阜県不破郡関ケ原町藤下678-2

【MAP】

〔駐車場所〕陣跡南側の県道21号線側道(旧中山道)沿いに駐車場がある。

【K-GF027】大谷吉継・湯淺五助墓所

   1600年(慶長5)年10月21日(9月15日)、関ヶ原の戦いにおけて自刃した大谷吉継と介錯をした家臣の湯浅五助隆貞の墓所である。なお、大谷吉継の墓標は「大谷吉隆」と刻まれており、これは関ヶ原合戦以前に吉隆と改名していたことに基づく。
 関ヶ原の戦いでは、大谷吉継は山中村の藤川台に陣地(大谷吉継陣跡)を置いたが、病(ハンセン病)の影響で陣中から動かず、輿に乗って軍の指揮を執ったとされる。しかし、松尾山の小早川秀秋の寝返りを機に、南に陣取っていた吉継の与力であるはずの脇坂安治らの4将も東軍に寝返り、大谷勢は壊滅状態になる。死を悟った吉継は「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と、家臣の湯浅五助に介錯を頼み、自刃し果てた。享年42(36とも)。敗戦後の西軍諸将の多くは戦場離脱し、戦場で自害したのは吉継のみである。
 五助は陣所から離れ、北へ約320ⅿほどのところに首を隠したが、直後に藤堂高刑(高虎の甥)に出くわしてしまい、「主君の首の在処を秘してほしい」と自らの首を差し出した。高刑は五助との約束を守り、徳川家康の詰問にも頑なに吉継の首の在処を明かさなかったという。 
 吉継の墓は、合戦後まもなく藤堂家の手によって建てられた。また、吉継の墓の横には、1916(大正5)年に湯浅家によって五助の墓が建てられた。墓の左10ⅿほどの所には大谷吉継顕彰碑も建てられている。

【史跡規模】

【指 定】国指定史跡(1906年8月指定)
【国 宝】
【国重文】

関連時代 安土桃山時代
関連年号 1600年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
大谷吉継 AW01 湯浅五助隆貞 FU15


【K-GF027】大谷吉継・湯淺五助墓所



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陣跡から北へ320ⅿほど進む 大谷吉隆(吉継)の墓 湯淺五助隆貞の墓 大谷吉隆顕彰碑 大谷吉隆顕彰碑の裏面