後醍醐天皇塔尾陵
ごだいごてんのう とうのおのみささぎ(Tonoo Mausoleum of Emperor Godaigo)
【K-NR013】探訪日:1990/11.17・2026/7.11
奈良県吉野郡吉野町吉野山1024
【MAP】
〔駐車場所〕如意輪寺参詣者用駐車場がある。
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1339年9月19日(延元4年8月16日)に吉野朝宮(吉野行宮)にて宝算52で崩御した第96代(南朝初代)・後醍醐天皇〔在位:1318~39年〕の陵に比定されている。如意輪寺内にあり、宮内庁上の形式は円丘。奈良県(大和国)内に葬られた最後の天皇でもある。通常、天皇陵は南面しているが、後醍醐天皇陵は北面している。これは北の京都に帰りたいという後醍醐天皇の願いを表したものだという。軍記物語『太平記』では、後醍醐天皇は「玉骨ハ縦南山ノ苔ニ埋マルトモ、魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マン」と遺言したとされている。また、遺言に従って、火葬は行われず土葬にて埋葬されたとされる。
後醍醐天皇は大覚寺統・後宇多天皇の第二皇子で、生母は内大臣・花山院師継の養女・藤原忠子(実父は参議の五辻忠継)。諱は尊治。親王のときには帥宮と呼ばれた。
天皇による親政を理想とし、武家政権の鎌倉幕府を打倒し建武の新政を行った。しかし、建武の新政は2年半で崩壊し、足利尊氏による武家政権に戻ることとなり、朝廷の支配力は鎌倉時代以上に弱まることとなる。足利尊氏との戦いに敗れた後は、大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立し、尊氏の室町幕府が擁立した北朝との間で、南北朝の内乱が勃発した。天皇は各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとしたが、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、1339(延元4/暦応2)年8月15日に吉野へ戻っていた義良親王に譲位(後村上天皇)した翌日、崩御した。尊氏が征夷大将軍に就任した翌年である。
なお、結果的には敵同士になってしまった足利尊氏からも敬愛されており、尊氏は後醍醐の菩提を弔うために天龍寺を造営している。また足利義政は小槻雅久や吉田兼倶といった学者の意見に従い、東山山荘(現・慈照寺)の東求堂に後醍醐の位牌を安置して礼拝した。