興禅寺
こうぜんじ(Kozen-ji Temple)
【T-NN001】探訪日:1991/4.20・2026/10.18
長野県木曽郡木曽町福島5659 <📲:0264-22-2428>
【MAP】
〔駐車場所〕参詣者用駐車場がある。
![]()
1434(永享6)年、木曾氏12代の木曾信道が居館を大桑村須原から木曽福島に遷し、木曾義仲の追善供養のために鎌倉建長寺5世の圓覚大華を勧請して開山したと伝わる。1466(文正元)年には木曾家豊が梵鐘を寄進している。山号は萬松山、臨済宗妙心寺派の寺院で、町内の長福寺,大桑村の定勝寺とともに木曽三大寺のひとつとされる。
明応年間(1492~1501年)になって、木曾義元の弟の寂雅良演が二世となり、義元や一族の入道啓秀の庇護を受けて、1496(明応5)年、仏殿を建立するなど中興の業を果たした。天正年間(1573~92年)初頭には木曾義昌が帰依している。
1590(天正18)年、木曾義昌が徳川家康から下総国阿知戸に1万石を与えられて木曽谷を去ると、その後、豊臣秀吉の重臣・石川光吉が木曽代官となり、木曽氏ゆかりの興禅寺・長福寺・定勝寺の三箇寺に対し保証を与えている。
1629(寛永6)年、山村良豊は父・山村良勝の隠居を受けて家督を嗣いで木曾代官となったが、当時、菩提寺であった長福寺の住持の高安とは仲が悪く、興禅寺八世の周谷とは昵懇であったことから、1634(寛永11)年に山村良勝が死去した際(桂嶽祖昌の時)、山村甚兵衛家は当主の菩提所を興禅寺に変更して埋葬することとなり、長福寺は山村甚兵衛家の内室方の菩提寺となった。
その後、興禅寺は一時衰微していたが、六世の南叔に至って妙心寺派となり、木曾義昌の帰依を得て、寺運を取り戻している。南叔が示寂して桂嶽祖昌が七世となった。
1641(寛永18)年4月20日、火災により、1496(明応5)年に中興された仏殿・観音堂などが焼失したが、1645(正保2)年には山村良豊の助成により復興し、山門の建立が行われた。桂嶽祖昌は1653(承応2)年4月に久昌院、1660(万治3)年3月に開田村に萬年山随松菴(瑞松寺)を開創している。
興禅寺は1906(明治39)年、1927(昭和2)年と大火に遭っており、現在の建物はいづれも大火後の再建である。表門を入ると正面に観音堂があり、その後方の右側に瓦葺の入母屋造の本堂がある。左側は庫裏である。勅使門は1953(昭和28)年に昔の姿に復元された。
また、看雲庭は1963(昭和38)年に作庭家の重森三玲氏により造られた枯山水庭園で日本一大きな石庭と言われ、高山の雲海の美を表現したものだという。2019(平成31)年に、国の登録記念物に登録されている。境内には「木曾踊発祥の地」の碑があり、8月13日の夜に繰り広げられる「木曾義仲公松明祭」の武者行列は、この碑の前の広場から出発する。
本堂裏の墓地には、木曾義仲をはじめとする木曾家一族の墓、また尾張藩の木曽代官を代々世襲した山村甚兵衛家歴代の墓碑が立ち並んでいる。