木曽代官山村家墓所〔興禅寺〕
きそだいかん やまむらけ ぼしょ(Graves of the Yamamura Clan Who Were Kiso-Daikan [in Kozen-ji Temple])
【K-NN007】探訪日:2026/10.18
長野県木曽郡木曽町福島門前
【MAP】
〔駐車場所〕興禅寺参詣者用駐車場がある。
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興禅寺にある木曽代官と福島関所の関守を代々務めた山村良勝以降の山村家歴代の墓所である。山村家初代の良道,2代の良利,3代の良侯(良勝の父)の墓は龍源山長福寺(木曽町福島門前5690)にある。興禅寺の裏山にあり、代官2代・山村良勝から9代・良由のエリアと、10代・良喬から13代・良醇のエリアに分かれている。2代・良勝と4代・良豊の墓は五輪塔、他の墓は大型笠塔婆である。同墓地には木曾家一族の墓所も隣接している。
山村氏は、遡れば菅原道真という大江氏の流れを汲み、祖である山村良道は近江国山村の出身であったが、諸国を旅する途中、木曽の木曾義元に気に入られてしばらく留まるも、1515(永正12)年に戦死した。嫡男の山村良利(2歳)は、木曾義在によって養育され木曾氏の家臣となり、山村良候の代には木曾義昌に仕えて功名を立て次第に重き存在となった。
1582(天正10)年には木曾義昌とともに武田勝頼を見限り、下総へ移る。1590(天正18)年、小田原征伐では徳川軍に加わり、小田原城が落城すると、山村良勝は下総国網戸(阿知戸)へ移封された木曾義昌に従ったが、父の良候は老齢を理由に木曽福島に留まった。
1600(慶長5)年、徳川家康は木曾義利を不行状の理由により改易し、その領地1万石を没収したため、木曽氏一族・家臣達は所領を失うこととなる。家康は会津征伐の際に、山村良勝・千村良重・馬場昌次を下野国小山に召し出し、木曽氏の旧領地を与えることと引き換えに、西軍の木曽の太閤蔵入地の代官で犬山城主の石川貞清から木曽谷を奪還するように命じた。山村良勝らは甲斐・信濃に潜んでいた木曽氏の遺臣に東軍加担を呼びかけながら中山道を通って西へ向けて進軍し、8月12日には、石川貞清の家臣からも内応者が出て、山村良勝は妻籠城に入って城を修築した。さらに、西軍が籠る苗木城や岩村城の奪還にも協力した。
家康は、関ヶ原の戦いで勝利した2週間後の10月2日に、山村良勝の父・山村良侯(道祐)を初代木曽代官に任命し、木曽氏の館跡に山村代官屋敷を構えた。以降、山村家は、良勝,良安,良豊,良忠,良景,良及,良啓,良由,良喬(蘇門),良熙,良棋,良醇と明治まで代々、木曽代官と福島関所の関守を務めた。