血原:徳川・朝倉軍交戦地〔姉川古戦場〕

ちはら:とくがわ・あさくらぐん こうせんち〔あねがわこせんじょう〕

(Chihara;Tokugawa-Asakura Military Battlefield[Historic Battlefield of Anegawa])

【B-SG001f】探訪日:2019/9/17

 滋賀県長浜市三田町

  【MAP】

〔駐車場所〕

   1570(元亀元)年6月28日未明、姉川の北方3kmにある大依山から姉川北岸に布陣した朝倉景健軍1万(本陣は三田村氏館付近)と、龍ヶ鼻砦から姉川南岸に前進した徳川家康軍6千(本陣は岡山)の中間にあたる激戦地。両軍の多くの戦死者の血に染まったことから「血原」と呼ばれるようになった。
 戦いは最初、数に勝る朝倉軍が優位であったが、浅井・朝倉連合軍の陣形が伸びきっているのを見た家康は榊原康政に命じて側面攻撃を行ったことで、まずは朝倉軍が敗走し続いて浅井軍が敗走した。
 また、両軍の戦いで最も有名なのが、朝倉軍の武将・真柄十郎左衛門直隆の討死である。彼は刃長五尺三寸(160cm)の大太刀を振るって奮戦し、最初は家康家臣の向坂式部と槍を交えたが、式部が兜の吹返しを砕かれ槍を落としたため、弟の五郎二郎が入替わり渡り合った。そこに、向坂六郎五郎吉政が郎党の山田宗六と助太刀に加わった。直隆は五郎二郎と山田宗六を切伏せたが、その隙に吉政の十文字槍で討たれ首を取られたとされる。吉政は最初に槍をつけた式部に首を取るよう言ったが、辞退したので吉政が直隆の首を取ったという(山鹿素行の『武家事紀』による)。また、青木一重が討ち取ったという説もある(『信長公記』)。
 現在、この地は公園となっており、姉川の戦いとは関係はないが、「血原養水底樋跡」の碑がある。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1570年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
朝倉景健 AK** 徳川家康 TG01 榊原康政 G***
真柄直隆 **** 向坂式部 **** 向坂五郎二郎 ****
向坂吉政 **** 青木一重 TJ06

 

 

 

 

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【B-SG001f】徳川・朝倉軍交戦地(血原)〔姉川古戦場〕

▲説明板

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▲「血原養水底樋跡」の碑