塞之神城跡

さいのかみじょうあと(Sainokami Castle Ruins)

【C-AC171】探訪日:2017/5.28・2023/6.17

 愛知県新城市作手清岳クザ畑2

【MAP】

〔駐車場所〕文殊山城跡から行く場合は善福寺への入り口に駐車場がある。

   築城年代,築城者は定かではない。古くは作手を治めていた米福長者(矢作の兼高長者,宝飯長者と並ぶ三河三大長者のひとり)の時代に築かれ、その後、元亀年間(1570~73年)に亀山城の奥平氏が、武田氏との和睦の証として文殊山城と共に築城(増修築)したものと考えられている。武田方の古宮城とは作手街道を東西で挟むかたちとなる。しかし、1573(天正元)年の奥平氏の寝返りや1575(天正3)年の長篠設楽原の戦いでの武田氏撤退以降は徳川家康の所領となった。
 城の縄張りは、文珠山城と尾根伝いに連なる二の曲輪と、その東側の本城山山頂部の土塁が巡らされた一の曲輪から成る。一の曲輪には東と南にそれぞれ虎口が設けられ、東の虎口を下ると土塁に囲まれた腰曲輪が残っている。文珠山城から行くルートでは、南と西の尾根を遮断している堀切の東側が二の曲輪となる。二の曲輪は三角形に近く、一の曲輪と比べると加工程度に差異が見られ、2時期に分けられて築城されたことが推測される。その先の土橋を渡り小郭を経て南側の虎口に至る。また、一の曲輪の南側山腹には大きな竪堀状の溝があり、その東側に井戸跡が残されている。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1570~73年・1573年・1575年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
米福長者 **** 奥平貞昌 KD13 武田信玄 G432
徳川家康 TG01

 

 

 

 

塞之神城縄張図(『愛知県中世城館跡調査報告』に加筆)

【C-AC171】塞之神城跡 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

文殊山城跡から向かう ここを右へ 途中にある社 堀切 二の曲輪 二の曲輪 南の虎口 主郭の土塁 主郭から見た虎口 主郭 主郭 土塁 土塁 主郭の城址碑 土塁 土塁から見た主郭北の腰曲輪 土塁から見た主郭 土塁から見た主郭 土塁上 土塁上