長野城跡

ながのじょうあと (Nagano Castle Ruins)

【C-ME021】探訪日:2019/3/24

【C-ME021】長野城跡 三重県津市美里町桂畑

【MAP】

〔駐車場所〕

【C-ME021】長野城跡

   1274(文永11)年、長野祐藤によって築かれたとされる。長野氏は鎌倉御家人の工藤祐長が1239(延応元)年に伊勢国安濃,庵芸二郡の地頭職を得て、その子祐政が長野に下向して長野氏を名乗ったことに始まる。
 南北朝時代、長野氏は北朝方としてしばしば南朝方の北畠氏と戦い、1346(貞和2)年に北畠氏に攻められて落城したが、1352(文和元)年に再び長野氏が入っている。1360(延文5)年には室町幕府に反旗を翻した仁木義長が逃げ込み、追討軍に対して2年以上の籠城を続けたほど要害堅固な城であった。1558(永禄元)年、長年に亘る長野氏と北畠氏との抗争に講和が成り、北畠具教の次男具藤を長野藤定の養子に迎え16代当主として家督を譲ることで事実上北畠氏の配下となった。
 1569(永禄12)年、織田信長が中伊勢に侵攻すると、長野氏の一族である細野藤敦は安濃城に籠り織田軍に抵抗したが、分部光嘉,川北藤元は織田信長の弟信包を長野家の養子に迎えて和議を整えようとした。しかし長野具藤は細野藤敦が信長方に属したとの流言に惑わされて細野氏を攻めたが、逆に藤敦に攻め込まれて生家の北畠氏を頼って落ち延びた。これにより信包が長野氏の当主となり長野一族は織田信長の配下となった。信包は1570(元亀元)年に上野城を居城とし、長野城を廃している。
 長野城は伊賀街道を見下ろす標高580mの山上に築かれた天然の要害であり、非常時の詰城と考えられる。西の尾根に一条の堀切を設け、主郭は東側にコの字状に低土塁が残っている。北東に伸びる尾根には西側を土塁状に削り残した削平地がある。

【史跡規模】

【指 定】国指定史跡(1982年1月16日指定)
      長野城跡+東の城跡+中の城跡+西の城跡
【国 宝】

【国重文】

関連時代 鎌倉時代 南北朝時代 戦国時代
関連年号 1274年 1346年・1352年・1360年 1558年・1569年・1570年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
長野祐藤 F039 仁木義長 G376 北畠具藤 F039
長野藤定 F039 織田信長 OD04 細野藤敦 F039
分部光嘉 F039 川北藤元 F039 織田信包 OD03

 

【C-ME021】長野城跡
 車で頂上(曲輪の下)まで行くことができるが、かなり荒れた道である。もちろん舗装はされていない。ドラレコの衝撃感知がピーピーと鳴る。また、ハンドルを誤ったら深い谷底へ真っ逆さま。そんな状況で、急に車の前をカモシカが崖の上から飛び降り横切ったときには肝を潰した。城域はあまり広くはないが、四方急峻な崖であり二木義長が2年以上籠城できたのも納得がいく。 

 

【C-ME021】長野城跡

 

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▲ここを入る

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▲登城時に振り向いて撮影

【C-ME021】長野城跡

▲ここまで車で進める

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▲堀切

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【C-ME021】長野城跡

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▲主郭

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▲主郭

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▲主郭

【C-ME021】長野城跡

【C-ME021】長野城跡

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▲城址碑

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