中宮寺

ちゅうぐうじ(Chugu-ji Temple)

【T-NR014】探訪日:1994/8.10・2025/9.7

【T-NR014】中宮寺 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1丁目1-2

【MAP】

〔駐車場所〕

【T-NR014】中宮寺

   聖徳宗の寺院で山号は法興山。如意輪観音を本尊とする。法隆寺に隣接し、聖徳太子が母后のために創建した尼寺で、開基は聖徳太子または間人皇后(穴穂部間人皇女)とされる。創建当初は500mほど東(現・中宮寺跡史跡公園)にあったが、中宮寺が門跡寺院となった16世紀末頃に現位置に移ったと推定される。旧寺地の発掘調査の結果から、法隆寺と同じ頃の7世紀前半の創建と推定されるが、創建の詳しい事情は不明である。「聖徳太子建立七寺」の一つとされるが、確証はない。中宮寺独自の創立縁起は伝わらず、『日本書紀』にも中宮寺創建に関する記載はないが、尼寺である向原寺と同系統の瓦が出ていることから、当初から尼寺であったようである。
 平安時代の『聖徳太子伝暦』は、中宮寺は聖徳太子が母・間人皇后の宮殿を寺としたと伝え、後には間人皇后自身が発願者であるという伝承も生まれる。鎌倉時代の顕真が著した『聖徳太子伝私記』の裏書には、「葦垣宮,岡本宮,鵤宮の3つの宮の中にあった宮なので中宮といい、それを寺にした時に中宮寺と号した」との説が記載されている。
 平安時代以降衰微していったが、鎌倉時代には中興の祖とされる信如比丘尼によって復興が図られた。信如は1274(文永11)年、法隆寺の綱封蔵から聖徳太子ゆかりの「天寿国繡帳」を再発見したことで知られる。
 その後、戦国時代に中宮寺は炎上したため、ついに現在地にあった法隆寺の子院に避難し、そのままそこに寺基を移すこととなった。
 1602(慶長7)年には慈覚院宮を初代門跡に迎え、以後は尼門跡斑鳩御所として明治時代を迎え、今日に至っている。太平洋戦争後、法隆寺を総本山とする聖徳宗に合流した。法要に際して法隆寺の僧に助力を乞うなど、創立から現代に至るまで法隆寺と一体ともいえる寺である。
 本堂は 高松宮妃の発願で1968(昭和43)年に建てられた和風の現代建築である。
 飛鳥時代の木造菩薩半跏像(国宝)は、寺伝では如意輪観音だが、これは平安時代以降の名称で、当初は弥勒菩薩像として造立されたものと思われる。像高132cm(左脚を除く坐高は87cm)で材質はクスノキ材、一木造ではなく特異な木寄せを行っている。現状は全身が黒ずんでいるが、足の裏などにわずかに残る痕跡から、当初は彩色され、別製の装身具を付けていたと思われる。
 また、もう一つの国宝である天寿国繡帳残闕は、聖徳太子の王妃・橘大郎女が、太子とその母・穴穂部間人皇女の死去を悼んで多くの采女らとともに造った刺繡、曼荼羅である。もとは2帳。断片とはいえ、飛鳥時代の染織の遺品として極めて貴重である。実物は、奈良国立博物館に寄託されている。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】菩薩半迦像(1951年6月9日指定)

     ・天寿国繡帳(1952年3月29日指定)

【国重文】文殊菩薩像(鎌倉時代の作で経巻を芯とする)
     ・紙本墨書瑜伽師地論 二巻(奈良時代の作)

関連時代 飛鳥時代 鎌倉時代 安土桃山時代 昭和時代:後期
関連年号 1274年 1602年 1968年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
厩戸皇子(聖徳太子) K303 間人皇后(穴穂部間人皇女) **** 橘大郎女 K302
信如比丘尼 **** 慈覚院宮(尊智女王) K801 高松宮妃 TG07


【T-NR014】中宮寺  
 


【T-NR014】中宮寺


菩薩半跏像(寺伝・如意輪観音)と天寿国曼荼羅繍帳(聖徳宗 中宮寺 公式ホームページより引用)

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山門 本堂