椿井城跡
つばいじょうあと(Tsubai Castle Ruins)
【C-NR085】探訪日:2025/9.7・11.22
奈良県生駒郡平群町椿井
【MAP】
〔駐車場所〕
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築城年は定かではないが、当初は室町時代から戦国時代までの間に築かれた在地土豪の椿井氏の居城であったとされる。城主は椿井右近大夫との伝承もあるが、現存する椿井氏系図にみえる「椿井右京大夫政信」との関係は不明である。
史料では確認できないが、信貴山城主の松永弾正久秀が関わっており、信貴山城の出城とする見方もある。平群方面では松永氏と筒井氏の小競り合いが続いており、松永氏は織田信長に滅ぼされる1577(天正5)年10月まで椿井城をおさえていたとみられる。時期は不明であるが、松永氏の滅亡後に筒井氏の城となり、筒井家重臣の嶋左近清興が入ったとみられている。なお、伝承では、椿井城の最終段階においては筒井家重臣の八條長祐が城番であったとされる。その後、1580(天正8年)の信長の破城令によって廃城となった。
城は矢田丘陵南部山上に築かれ、南北310m,東西110mの規模を有する。縄張りの遺構は大きく北郭群と南郭群に分かれ、尾根上の5ヶ所を堀切で遮断し、横堀,竪堀,土塁,切岸などを設けている。なお、南郭群と北郭群の中間にある鞍部には明確な城郭遺構がみられず、形態的に「別城一郭」の様相を呈している。
南郭群(城)は南北に3面の郭と2本の堀切にて構成される。南にある副郭は、堀切土橋から続く虎口を2本の土塁で防御し、土橋は斜めにし西側土塁を障壁としている。南郭群の土塁は全て南に設けられ、東西方向は急峻な切岸で防御する構造である。副郭と主郭の間を大きな堀切で遮断する。主郭は南群中で最も比高が高くて広く、東側斜面には石積及び竪掘状の溝が一本確認され、西側は急峻な斜面で敵を寄付けない地形である。
北郭群(城)は南郭群よりも規模が大きく構造も複雑である。堀切は3本、東西南北に幾重にも郭を並べ、西側には腰曲輪群がある。主郭は東側に土塁のある最高所(標高241.5m)で、規模は大きくない。副郭は主郭と同じく東側に土塁を持った大きな郭で何らかの建物が存在した可能性がある。北群の土塁は全て東側を向いており、さらに東側下方には塹壕としての機能を兼ね備えた横堀や竪掘状の溝が数本確認できる。北郭群の防御正面は東側にあったことは疑いのないものと考えられ、これらの構造からみて、信貴山城の松永氏に対峙する城ではなく、松永氏が東の筒井勢に備えた城と見るほうが妥当である。
城郭遺構は調査が進められている段階ではあるが、総じて、椿井城は自然地形を巧みに利用した無駄のない縄張にて土木量を無理に増やさず大きな効果を得ている城で、近畿の城の中でも完成度のかなり高い城と評価できる。
なお、南の登城口付近には椿井井戸、登城道途中には宮裏山古墳、鞍部から西に下りた椿井春日神社には椿井宮山塚古墳がある。
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【史跡規模】
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【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
| 関連時代 | 室町時代 | 戦国時代 |
|---|---|---|
| 関連年号 | 1577年・1580年 |
| 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
|---|---|---|---|---|---|
| 椿井右京大夫 | G*** | 松永久秀 | ZZ02 | 筒井氏 | MW21 |
| 嶋 清興 | **** |
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最初の登城は9月上旬であったが、南副郭に着いた時点で熱中症気味になり、やむなく途中下山した(登城前に20kmほど歩いていたため)。2回目は11月に再度挑戦したが、写真を見てもわかるように紅葉が進み、季節感が変わっている。あとから知ったが、北郭群は未整備で進入禁止だったようで、確かに雑草に覆われていて遺構の認識が難しかった。さらには、下山途中で愛用の木製スティックが折損して使えなくなり、斜面でバランスを崩して落ち葉の上を5mほど2回滑落してしまった(ケガは全くなし)。
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椿井城縄張り図(現地説明板,『日本城郭大系 第10巻』他を参照加筆)