鳴海城跡

なるみじょうあと (Narumi Castle Ruins)

【C-AC031】探訪日:2003/10/17・2014/9/21・2021/3/10

【C-AC031】鳴海城跡 愛知県名古屋市緑区鳴海町城3

【MAP】

〔駐車場所〕

【C-AC031】鳴海城跡

   築城年代は定かではないが、1394(応永3)年に足利義満の配下であった安原宗範によって築かれた。その際にこの地にあった成海神社は北の乙子山に移された。宗範の死後は廃城になったといわれる。
 戦国時代には尾張国の織田信秀の配下である山口教継が、駿河国の今川義元に備えるべく城主を務めていた。しかし、1552(天文21)年、信秀が没すると、教継は戸部城の戸部政直,沓掛城の近藤景春らとともに今川方へと寝返った。その後、教継は息子の山口教吉に鳴海城を任せる。織田信長は裏切った諸城を攻めるも落とすことはできなかった。
 1557(弘治3)年、信長は、山口らが再び今川方から織田方へ寝返るという偽の書状を流す。義元はこれに激怒し教継・教吉父子と戸部政直を切腹に追い込んでしまう(これが桶狭間の敗因ともいわれる)。山口氏に代わり今川家譜代の岡部元信が城主が入り今川家直轄の重要拠点になった。
 1560(永禄3)年、桶狭間の戦いでは本隊の今川義元が討たれても織田方の丹下砦,善照寺砦,中島砦と対峙していた鳴海城兵はほとんど無傷であったが、信長との交渉の結果、岡部元信は義元の首級と引き換えに城を明け渡すという条件を呑み、城は信長の手に落ちた。戦後は佐久間信盛・信栄父子が城主をつとめ、1590(天正18)年に廃城になったといわれる。
 地名からも知れるように、当時は海に面し、満潮時には城のすぐ下まで潮に浸かったと伝えられている。『鳴海誌』によれば、東西約137m,南北約62mの丘陵の西に立つ東西に長い城郭とされる。現在の城跡公園(西の丸跡)から天神社のある東の小さな高台あたりといわれる。公園の近辺には空堀や土塁状の地形が存在する。また、近くの東福院には、鳴海城の廃材で造られたという門が存在する。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 室町時代 戦国時代 安土桃山時代
関連年号 1394年 1552年・1557年・1560年 1590年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
安原宗範 **** 山口教継 **** 山口教吉 ****
織田信長 OD04 岡部元信 F009 今川義元 G361
佐久間信盛 H504 佐久間信栄 H504

 

 

 

 

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▲鳴海城跡公園(本丸跡)

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▲旧説明板(2005年当時)

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▲本丸跡

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▲西側の堀跡

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▲城跡東端の天神社

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▲城址碑

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▲天神社

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▲鳴海城の廃材を用いた東福院山門

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▲鳴海城城門の梁

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