刈谷城跡
かりやじょうあと (Kariya Castle Ruins)
【C-AC012】探訪日:2016/9/10・2021/7/27
愛知県刈谷市城町1丁目49
【MAP】
〔駐車場所〕
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別名を亀城と呼ばれる。1533(天文2)年、水野忠政によって築かれた。本拠地である緒川城あるいはすでに三河に築いていた刈谷古城から移り居城した。徳川家康の生母・於大の方は刈谷城から岡崎城の松平広忠に嫁している。於大の方は父・忠政の死後、兄・水野信元が今川氏を離れ織田氏についたため松平氏を離縁された後、刈谷城近くの椎の木屋敷で久松氏に再嫁するまでの日を過ごしている。
1560(永禄3)年の桶狭間の戦いで敗れた岡部元信は鳴海城から引き上げる途中に城主の水野信近を討ち取り、城に火を放っている。
1575(天正3)年、水野信元は佐久間信盛の讒言にあい、信長から武田方への内通を疑われ、信長の命を受けた家康に殺害されるという非業の最期をとげ、刈谷城は佐久間信盛の領有となる。後に、信元は冤罪だったとして信盛は信長に追放され、信元の末弟・忠重が城主となって水野氏の領有に復した。忠重,勝成,忠清と5代の水野氏の居城を経て、1632(寛永9)年に深溝松平家入城、その後は久松松平家,稲垣氏3代,阿部氏2代,本多氏,三浦氏3代と頻繁に城主の交代が続き、1747(永享4)年より土井氏が入封し9代の支配の後に1871(明治4)年の廃藩を迎え、城は破却された。
城は衣ヶ浦の北端東岸に面して築かれ、西から順に本丸,腰曲輪、さらに入江のない他の三方に堀が巡らされて二の丸,三の丸と続き、三の丸東側に大手門が置かれていた。天守はもたなかったが、北西と南東に隅櫓があり、周りを土塀で囲んで本丸を形成、二の丸との間には内堀と馬出しが設けられていた。北西隅櫓跡にある十朋亭の裏側に当初の石垣が若干残されている。
現在、城跡のうち本丸および腰曲輪の一部が亀城公園となっている。本丸を囲む土塁が残存するほか、腰曲輪東側の堀は拡幅されて城池となっている。旧三の丸には藩校文礼館の流れを汲む刈谷市立亀城小学校および刈谷市郷土資料館が建つ。また、碧南市の妙福寺には辰巳櫓が移築現存している。
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【史跡規模】
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【指 定】 |
| 関連時代 | 戦国時代 | 江戸時代:前期 | 江戸時代:中期 | 明治時代 |
|---|---|---|---|---|
| 関連年号 | 1533年・1560年・1575年 | 1632年 | 1747年 |
1871年 |
| 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
|---|---|---|---|---|---|
| 水野忠政 | G606 | 水野於大 | G606 | 水野信元 | G606 |
| 岡部元信 | F009 | 佐久間信盛 | H504 | 水野忠重 | G606 |
| 水野勝成 | G607 | 水野忠清 | G608 |
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▲表門から本丸へ向かう

▲南東隅櫓跡

▲南東隅櫓跡

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▲表門西側

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▲本丸跡

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▲本丸跡

▲本丸跡(南東隅櫓跡)

▲南から見た本丸跡

▲本丸跡の「平和の塔」

▲西側の土塁

▲西の土塁上から見た本丸跡

▲本丸跡

▲北から見た本丸跡

▲東から見た本丸跡(北西隅櫓跡方向)

▲北西隅櫓跡に建つ十朋亭

▲十朋亭裏の石垣(大半は後世のもの)

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▲南から見た腰郭跡

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▲北から見た腰郭

▲腰郭から見た多門櫓跡

▲腰郭から見た裏門跡

▲本丸跡の土塁跡

▲本丸跡東側

▲本丸跡北側

▲本丸跡西側の石垣(後世のもの)

▲本丸跡西側の石垣(後世のもの)

▲拡張された堀(城堀)

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▲子亀池

▲二の丸跡にある城址碑

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▲三の丸跡(郷土資料館)

▲三の丸跡

▲三の丸跡

▲三の丸跡

▲大手門跡

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▲「従是西仮谷領」の碑

▲町口門跡

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