西川城跡

にしかわじょうあと (Nishikawa Castle Ruins)

【C-AC554】探訪日:2023/2.4

【C-AC554】西川城跡 愛知県豊橋市石巻西川町城山

【MAP】

〔駐車場所〕

   天文年間(1532~55年)、五本松城主・西郷正勝の子である西郷清員によって五本松城の支城として築かれたとされる。西郷氏は、松平清康,今川義元に仕えていたが、1560(永禄3)年に桶狭間の戦いで義元が討死すると、西郷正勝と元正(清員の兄)の親子は他の東三河国人衆と相語らい、今川氏傘下を離反し三河の松平氏に転属した。このため東三河の諸勢力が今川氏に差し出していた人質たち13人は、吉田城下の龍拈寺で串刺し刑に処せられている。また、1562(永禄5)年には今川方により西郷氏の居城である五本松城,月ヶ谷城を攻められ、父と嫡兄を同時に失い清員も捕らえられたが(たまたま不在だったとの説もある)、逃げ出して野田城まで落ち延び、菅沼氏の援助を受けたとされる。
 1571(元亀2)年、武田信玄の西進の先遣・秋山虎繁の侵攻を受けたため、菅沼定盈らと迎撃戦を展開したが、元正の子で総領であった義勝が戦死した。
 清員の子・家員は、1575(天正3)年の長篠設楽ヶ原の戦いで酒井忠次に属して鳶ヶ巣山砦の攻撃に参戦し、戦功により遠江国諏訪原城へ移った。1584(天正12)年の小牧長久手の戦い、1590(天正18)年の小田原征伐に参戦し、家康関東移封に伴い、家員も下総国生実へと移ったことで西川城は廃城となった。
 なお、清員は家康から姪を側室にと望まれたため、一旦自身の養女としたのち、差し出している。彼女が後に徳川秀忠,松平忠吉の生母となる西郷局である。
 また、1663(寛文3)年、三河吉田藩主・小笠原長矩が弟の小笠原長秋に2000石を授け、ここに陣屋を置いている。
 城跡は大福寺裏手の標高40m,比高20mほどの台地端にあり、100m×100mの単郭で南に虎口を開き、その両脇に土塁が設けられている。曲輪の南西側には櫓台と思われる方形の土塁がみられ、さらに低い土塁が続く。現在は栗園になっている西側にも虎口があり、そこから南にかけては横堀が掘られている。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代 安土桃山時代 江戸時代:前期
関連年号 1532~55年・1562年・1571年 1590年 1663年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
西郷正勝 F623 西郷清員 F623 西郷元正 F623
西郷正勝 F623 西郷家員 F623 西郷局 F623
小笠原長矩 G457 小笠原長秋 G457

 

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【C-AC554】西川城跡

西川城縄張図(『愛知県中世城館跡調査報告』に加筆)

【C-AC554】西川城跡 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

大福寺 虎口 虎口の土塁 曲輪内から見た虎口 曲輪 南の土塁 櫓台と思われる方形土塁 現在は栗園 西側の虎口 西先端部 南の横堀 南の横堀