諏訪原城(牧野城)跡

すわばらじょう(まきのじょう)あと (Suwabara[Makino] Castle Ruins)

【C-SZ011】 探訪日:1988/5/3・2015/10/23

【C-SZ011】諏訪原城跡 静岡県島田市志戸呂

【MAP】

〔駐車場所〕

【C-SZ011】諏訪原城跡

   1573(天正元)年、武田信玄の跡目を継いだ武田勝頼も父同様に遠江獲得を目論み、普請奉行を馬場信春、その補佐を武田信豊に命じて、東海道沿いの牧之原台地上に城を築かせた。勝頼は翌1574(天正2)年に信玄が為し得なかった高天神城を攻め落とすなど遠江に勢力を伸ばしていくが、1575(天正3)年に長篠設楽原合戦で織田,徳川連合軍に大敗を喫してしまう。家康は直ちに三河,遠江の武田氏の各拠点の攻略に乗り出し、諏訪原城も7月中旬ごろから徳川軍により包囲された。武田方は在番衆の今福虎孝や室賀満正,小泉昌宗以下抗戦の構えを見せ、1ヶ月余りの攻防戦が繰り広げられたが、徳川軍による包囲と攻撃を支えることができず、また敗戦の痛手から勝頼が援軍を派遣できなかったこともあり、開城し城兵は小山城に退去した。
 攻略後、家康は古代中国の故事にちなんで牧野城(牧野原城)と改名し、遠江攻略の拠点とした。殊に高天神城への大井川沿いの補給路を封じたことは戦いを有利に導いた。家康は武田氏の縄張りをそのまま引き継ぎ、この時期に堀や丸馬出しをさらに増強、大手曲輪なども築いて、より東海道に近接した縄張りにしたと考えられている。また、家康は、城主ではなく常駐の城番(定番衆)として松平家忠(東条城主),牧野康成(牛久保城主)などを複数置く一方、別に交替で守備や普請を担当する交代番(牧野番)に西郷家員(西山城主),松平家忠(深溝城主),戸田康長(二連木城主)を定めた。交替は西郷氏→松平氏→戸田氏の順でほぼ半年毎に約1ヶ月間勤め、この守備体制は甲斐武田氏滅亡まで継続された。
 1582(天正10)年、武田氏が滅亡すると牧野城の役目も終わり、1590(天正18)年に徳川家康が関東へ転封となった頃には廃城となったと推測される。
 諏訪原城は大代川と菊川との間に南北に伸びた台地の上にあり、台地の東端部が突き出した所に築かれている。江戸時代にはこの付近を東海道が通っており、街道を取り込んだ要害であった。諏訪原城は東へ突きだした台地の東端に主郭を構え、その西側に南北に長い二郭、さらに外側に外郭を構えており、武田氏が好んだ後堅固の備えになっている。主郭は幅広く低い土塁が取り囲む形で北西に土橋が架かり二郭に通じる。二郭はその西側に大きな二つの丸馬出があり、南側は諏訪神社が祀られている。北の丸馬出はさらに北側に小さな角馬出がついて重馬出し、南側の馬出しもさらに南に馬出しがあり、こちら側の重馬出しになっている。外郭には東西に伸びる空堀が現存し、一角に武田方の武将今福浄閑戦死墓塚がある。
 戦国時代の武田氏,徳川氏の築城様式を知る上で貴重な史跡となっている。
 なお、明治維新を迎えると、駿府に配された元将軍の徳川慶喜を慕って随従した旧幕臣たちが、自活のために荒廃していた牧野城周辺に移住して開墾し主に茶畑としたことが、今日の茶の名産地につながっている。

【史跡規模】

【指 定】国指定史跡(1975年11月25日指定)
【国 宝】

【国重文】

関連時代 戦国時代 安土桃山時代
関連年号 1573年・1575年 1590年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
武田勝頼 G425 馬場信春 **** 武田信豊 G424
德川家康 TG01 今福虎孝 **** 室賀満正 ****
小泉昌宗 **** 松平家忠 MT33 牧野康成 MC01
西郷家員 F624 松平家忠 MT10 戸田康長 F530
徳川慶喜 TG07

 

【C-SZ011】諏訪原城跡
  

 

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▲大手口

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▲城址碑

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▲今福浄閑戦死墓塚

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▲大手曲輪

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▲大手曲輪

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▲大手北外堀

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▲大手北外堀

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▲城址碑

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▲惣曲輪

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▲三号堀

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▲二の曲輪中馬出

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▲二の曲輪中馬出

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▲三号堀と二の曲輪中馬出(右)

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▲三号堀と二の曲輪中馬出

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▲二の曲輪東の二号堀

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▲二号堀

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▲二の曲輪

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▲二の曲輪

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▲二の曲輪

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▲二の曲輪

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▲二の曲輪(←方向が大手馬出)

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▲現在は二の曲輪とされる

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▲本曲輪へ

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▲本曲輪虎口

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▲本曲輪馬出口

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▲本曲輪

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▲天守(二層櫓)台地

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▲搦手口

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▲カンカン井戸

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▲カンカン井戸

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▲外堀

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▲外堀