今川義忠墓所〔正林寺〕

いまがわよしただ ぼしょ〔しょうりんじ〕(Grave of Imagawa Yoshitada [in Shorin-ji Temple])

【K-SZ083】探訪日:2026/4.12

【K-SZ083】今川義忠墓所 静岡県菊川市川上497

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-SZ083】今川義忠墓所

   応仁の乱の最中の1476(文明8)年4月、勝間田城の勝間田修理亮と横地城の横地四郎兵衛を討伐し帰途の夜、遠江塩買坂にて両氏の残党により討たれた今川義忠の墓所である。正林寺墓地にある。
 1461(寛正2)年に父・今川範忠の危篤を受けて駿河守護職を継承したが、遠江守護職の斯波氏とは長年にわたり対立が続いていた。そんな中、1467(応仁元)年に応仁の乱が起こる。東軍に属した遠江守護の斯波義廉に対し、東軍が占拠している花の御所へ入り、そのまま東軍へ属した。この上洛中に、伊勢新九郎(北条早雲)の姉妹である北川殿と結婚したと考えられている。
 1468(応仁2)年、細川勝元からの要請を請け、斯波義廉の分国であった遠江国を撹乱すべく駿河へ帰国した義忠は、積極的に遠江への進出を図り、斯波氏や在地の国人と戦った。しかし、同じ東軍の中でも敵対関係が発生し、遠江の情勢は混沌とする。
 1476(文明8)年、義忠から背いて斯波義良に通じ、見付城を修復し抵抗の構えを見せた遠江の国人・横地四郎兵衛と勝間田修理亮を討伐すべく、500騎を率いて出陣した。勝間田城と横地城(金寿城)を囲み、両人を討つ。しかし、その帰途の夜、遠江塩買坂にて横地氏と勝間田氏の残党による一揆に不意を襲われ、馬上から指揮する義忠だったが、流れ矢に当たって討ち死した。なお、横地城で敗走した義忠が、南にある今川氏方の新野城に落ち延びる途中で討たれたとする説もある。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】

【国重文】

関連時代 室町時代
関連年号 1476年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図

今川義忠

G360


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正林寺 駐車場からの上り口