菩提山城跡
ぼだいさんじょうあと(Bodaisan Castle Ruins)
【C-GF093】探訪日:2026/4.28
岐阜県不破郡垂井町岩手
【MAP】
〔駐車場所〕登り口に駐車場がある。
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築城年は定かではないが、1544(天文13)年に美濃国守護・土岐頼芸から当時この地を治めていた豪族の岩手氏に宛てた書状に城名が見え、それ以前には築城されていたとされる。岩手氏は麓に居を構え、菩提山城は有事のときの詰城であったと考えられる。
1558(永禄元)年、竹中重元(半兵衛の父)が岩手弾正忠信冬を滅ぼし、6千貫の領主となった。翌1559(永禄2)年には菩提山城を再構築し、以後、重元,重治(半兵衛),重門の3代にわたり使用されれることとなる。
1560(永禄3)年、重元が病没すると、子の重治が19歳で家督を継ぎ城主となり、美濃国の国主で稲葉山城(後の岐阜城)主の斎藤義龍に仕えた。義龍死後に跡を継いだ斎藤龍興にも仕えたが、龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとせず、重治や西美濃三人衆を政務から遠ざけたため、1565(永禄7)年、重治は16人の手勢で稲葉山城を落とし、一時、龍興を追放した。その後、1年ほど浅井長政の客分となるが、領地の岩手に戻り隠棲した(栗原城跡を半兵衛の隠棲地とする伝承がある)。
斎藤氏の滅亡後には、織田信長に仕える。木下秀吉が三顧の礼を尽くして織田方へ引き入れ秀吉の配下としたとされるが、信長の直臣であったともいわれる。浅井・朝倉勢との姉川の戦い,宇喜多氏の備前八幡山城調略,有岡城攻略などに参加するが、1579(天正7)年4月の播磨国の三木城攻めの最中に病に倒れ、一旦療養のため京に上ったものの死期を悟った重治は陣中へと戻り、同年7月に享年36で病没した。
跡を継いだ子の重門は関ヶ原の戦いにて東軍につき、徳川家康に菩提山城を提供する。1607(慶長12)年、麓の竹中氏陣屋に居を移し、菩提山城は廃城となった。
城は伊吹山系の東端にある菩提山山頂(標高402m,比高335m)に築かれた東西150m・南北300mの西美濃では最大級の山城である。白山神社から大手山道を登り詰めると、竪堀に出る(「これより菩提山城跡」の表示あり)。大手曲輪を過ぎると、南北に本曲輪(東の丸),二の曲輪(中の丸),三の曲輪(西の丸)、さらに堀切を挟んで出曲輪が連なる。本曲輪の西には西の曲輪と台所曲輪、東には腰曲輪が配されている。南の出曲輪の西にも腰曲輪が付く。本曲輪,二の曲輪,三の曲輪と台所曲輪が城の中枢となり、大手曲輪,出曲輪ならびに大小の堀切や竪堀,横堀を巧みに用いて防御した完成度の高い山城といえる。
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【史跡規模】
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【指 定】垂井町指定史跡 【国 宝】 【国重文】 |
| 関連時代 | 戦国時代 | 安土桃山時代 | 江戸時代:前期 |
|---|---|---|---|
| 関連年号 | 1559年・1565年・1579年 | 1600年 | 1607年 |
| 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
|---|---|---|---|---|---|
| 岩手氏 | **** | 竹中重元 | G144 | 竹中重治 | G144 |
| 竹中重門 | G144 | 織田信長 | OD04 | 木下秀吉 | ZZ01 |
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菩提山城跡は規模も大きく、よく整備されており、私が訪れた山城の中でもかなり上位に入るお勧めの城跡である。特に幅広で急峻な竪堀は圧巻である。ただ、山道途中にクマ出没(クマが出た)の注意書きがあり、装備は十分しておくように!また季節によってはクマバチもよく飛んでいます。
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