村上義光墓所

むらかみよしてる ぼしょ(Grave of Murakami Yoshiteru)

【K-NR028】探訪日:2013/3.24・2026/11.1

【K-NR028】村上義光墓所 奈良県吉野郡吉野町吉野山16

【MAP】

〔駐車場所〕

   1333(元弘3/正慶2)年閏2月1日、吉野山での鎌倉幕府方との戦いで護良親王の身代わりとして自害した村上義光(義日)の墓所である。
 一次史料での記述は少ないが、軍記物語『太平記』では、護良親王の忠臣として印象的な活躍が細かく描かれている(真実は不明)。
 1333(元弘3/正慶2)年2月16日、幕府方の二階堂道蘊(貞藤)が6万余騎を率いて吉野城へ押し寄せ、18日早朝よりから両軍互いに矢合わせを開始した。七昼夜、激戦を続くが、閏2月1日、幕府軍は、搦め手(勝手明神方面),大手,吉野山南方の金峯山方面の三方より押し寄せ、城の本営めがけて一斉攻撃をかけてきた。吉野の大衆500余人は前後からの攻めを防ぎきれず陣は崩壊。
 護良親王らは死を覚悟し一旦幕府軍を退けた後、蔵王堂内の広庭に大幕を引き巡らした中に居並び、最期の酒宴を始めた。そこへ何事かと肝を冷やして大手から村上義光が駆けつける。義光は、死を覚悟した護良親王に、漢の高祖が敵に包囲された時、紀信は自ら高祖になりすまして敵の目を欺いた故事を持ち出し、義光自身が親王になりすまして敵の目を欺く間に脱出するよう進言したという。義光は護良親王の鎧と直垂をまとい、勝手明神の前から南の方へと落ち延びていく親王の姿を二天門の高櫓の上から見送り続けた。
 そして、幕府軍が攻め寄せると、護良親王になりすました村上義光は、櫓の上で、「われは後醍醐天皇の第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、のちに汝等が腹を切る時の手本にせよ」と叫び、鎧を脱いで櫓から投げ下ろし、錦の鎧直垂と袴姿となり、左の脇腹から右の脇腹まで一文字にかっ切り、自分の腸をつかみ出して、櫓の板に投げつけ、大刀を口に銜えたままうつ伏せにして絶命した。おそらく軍記物語としての誇張・脚色はあるものの吉野山の戦いで義光が亡くなったことは確かであろう。なお、子(次男)の村上義隆も父とともに死のうとしたが、護良親王を護衛するよう説得され、本営を脱出した護良親王の一行に加わった。
 『太平記』では村上義光の首は、京都六波羅に送られたとあるが、当地に残る口碑によれば、峯の薬師付近で敵将に偽首と見破られてその場に捨てられ、のちに里人が首を埋葬したと伝えられる。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】

【国重文】

関連時代 南北朝時代
関連年号 1333年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
村上義光 G505




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