吉野城跡
よしのじょうあと(Yoshino Castle Ruins)
【C-NR010】探訪日:2026/11.1
奈良県吉野郡吉野町吉野山
【MAP】
〔駐車場所〕
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1332(正慶元/元弘2)年、後醍醐天皇の皇子・護良親王が吉野山一帯を城砦化したことに始まる。別名は、金峯山城ともいわれる。細長く両側に急峻な斜面をもつ吉野山の尾根を天然の要害として利用し、本丸を金峯山寺蔵王堂に置き、北の前衛には六田城,一之坂城,丹治城,飯貝城の城塁(支城)を築いている。また、南には火見櫓や花矢倉、そして高城詰城(ツツジヶ城)を構え、要所には木戸や空堀が設けられている。
1331(元弘元)年、後醍醐天皇は笠置山で挙兵し元弘の乱が起こると、護良親王(この頃は仏門に入っており尊雲法親王といった)は般若寺で笠置山の動向を伺っていたが、後醍醐天皇が囚われの身となると、わずかな手勢を連れて熊野方面へと脱した。この時に赤松則祐,村上義光,木寺相模ら9名ほどが供奉した。一度は熊野へ向かうが、十津川の黒木御所,紀伊国,槇野城(五條市)と移ったのち、吉野山に入った。1331(元弘2)年6月以前とされる。吉水院宗信法印が吉野山の大衆を説得して護良親王を迎えたと伝わる。
1333(元弘3/正慶2)年2月16日、鎌倉幕府方の二階堂道蘊(貞藤)は6万余騎を率いて吉野城へ押し寄せ、18日卯刻(午前6時)から両軍互いに矢合わせを開始した。七昼夜、激戦を続けるが、護良親王軍は地の利を生かして幕府軍の侵攻を食い止める。
幕府方は土地勘のある吉野執行・岩菊丸(新熊野院の主僧と思われる)の提言で、防御が手薄な城の南側の金峯山(青根ヶ峰側),愛染明王宝塔方面からの突入し吉野勢を撹乱する作戦に出る。閏2月1日、幕府軍5万余は、搦め手(勝手明神方面),大手,金峯山方面の三方より押し寄せ、城の本営めがけて攻め上がった。吉野の大衆500余人が攻め口まで下って防ぎ止めるが、前後からの攻めを防ぎきれず吉野の衆徒らの陣は崩壊した。
護良親王らは逃げ道なしと覚悟を決めて奮戦し、一旦は幕府軍を撃退させると、蔵王堂内の広庭に大幕を引き巡らした中に居並び、最期の酒宴を始めた。やがて、幕府方と最前線で死闘を展開していた村上義光は酒盛の歌声を聞き、何事かと肝を冷やして大手方から駆けつける。義光は、死を覚悟した護良親王に、義光自身が親王になりすまして敵の目を欺く間に、脱出するよう進言する。義光は護良親王の鎧と直垂をまとい、勝手明神の前を過ぎ南の方へ落ち延びていく親王の姿を二の木戸の櫓(二天門の高櫓)の上から見送り続けた。そして、幕府軍が攻め寄せると、村上義光は櫓の上で壮絶な自害を遂げた。『太平記』では村上義光の首は、京都六波羅に送られたとあるが、当地に残る口碑によれば、峯の薬師付近で敵将に偽首と見破られてその場に捨てられ、のちに里人が首を埋葬したと伝えられる(村上義光の墓)。
一方、本営を脱出した護良親王の一行は、天の河(天川)の方へ進んだが、南方から回り込んできた岩菊丸の手勢500余が親王の行く手を阻んで包囲の輪を縮めてきた。親王と行動を共にした村上義光の子・義隆は、迫る岩菊丸の手勢を目のあたりにして、ここで食い止めようと決意し細道に立ちふさがり、迫り来る岩菊丸500余の追撃を1時間ほど食い止めたが、やがて力尽き、竹藪の中に走り入り腹を切って自害した(村上義隆墓所)。こうして、村上父子が自らの命をなげうって、敵を防ぐ間に護良親王は虎口を逃れ、ついに高野山へと落ち延びることができた。
同年閏2月24日、後醍醐天皇は隠岐の配所から脱出して船上山に入り、全国に「討幕の綸旨」を発する。足利高氏(足利尊氏)の鎌倉幕府からの離反、六波羅探題の陥落、鎌倉幕府の滅亡と大きく時代は動き、後醍醐天皇を中心とした建武の新政が始まる。しかし、それを不満とした足利尊氏は天皇に対し叛旗を翻し、1336(建武3)年には、後醍醐天皇が吉野山へと逃れることとなる。この間の1335(建武2)年には、護良親王は足利直義の命にて殺害されている。
後醍醐天皇は、はじめに吉水院に滞在した後、金峯山寺・蔵王堂の西にある実城寺を改築し寺号も金輪王寺と改めて、南朝の行宮とした(吉野朝宮跡)。後醍醐天皇は、1339(延元4/暦応2)年に吉野の地で失意のうちに崩御し(後醍醐天皇陵)、跡を後村上天皇が継ぐ。
1348(正平3/貞和4)年、四條畷の戦いで楠木正行・正時兄弟を討ち取った足利方の高師直の軍勢は吉野にも攻め入り、吉野行宮に火を放ったため、風に煽られ蔵王堂はじめ多くの寺院宝塔が焼け吉野山一陣は灰燼に帰したという。後村上天皇は賀名生へと逃れた。
現在の吉野山に残る城の遺構としては、北の出城跡(一の坂城は吉野山への道路となり遺構消滅)のほか、大橋,天王橋,丈之橋の橋が架かった空堀跡、火之見櫓跡、吉野城の詰城とされるツツジヶ城跡がある。また、現在の吉野神宮付近は丈六平といい、二階堂の軍勢がここに陣取ったとされる。蔵王堂内の広庭は護良親王らが最期の酒宴を催した所、その南にある二天門跡は護良親王に扮した村上義光が自害した所であり、勝手明神(現・勝手神社)前から西の谷へ下ると天川・十津川へと抜けることができ、護良親王が落ち延びた道と考えられる。途中の道路脇に村上義隆の墓がある。
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【史跡規模】
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【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
| 関連時代 | 鎌倉時代 | 南北朝時代 |
|---|---|---|
| 関連年号 | 1332年・1333年 | 1336年・1348年 |
| 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
|---|---|---|---|---|---|
| 護良親王 | K401 | 二階堂貞藤 | F033 | 岩菊丸 | **** |
| 村上義光 | G505 | 村上義隆 | G505 | 後醍醐天皇 | K401 |
| 後村上天皇 | K401 | 高 師直 | TS08 |
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2026年7月の吉野山探訪では平安末期の源義経と西行の関連史跡を回ったが、今回は鎌倉末期~南北朝時代の吉野城の関連遺構を訪れた。同じ史跡でもテーマをもって訪れると見え方が変わってくる。これが史跡探訪の楽しみのひとつと思う。なお、今回は本来ならば、前衛の飯貝城跡・丹治城跡・六田城跡も訪れたかったが、その1週間ほど前に城跡近辺でクマの目撃情報があり(クママップ)、今回は探訪を断念した。
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吉野城の関連史跡図(Googleマップ航空写真に加筆)
※北の出城,詰城,丈六平,墓所などについては個別のサイトを参照ください