吐山城跡
はやまじょうあと(Hayama Castle Ruins)
【C-NR058】探訪日:2025/5.8
奈良県奈良市都祁吐山町
【MAP】
〔駐車場所〕北西側登り口付近に駐車スペースがある。
築城年は定かではないが、室町時代末期に築かれた吐山氏の居城とされる。1485(文明17)年頃より筒井党と越智党の対立が激しくなる中、越智党の吐山氏は、北西に位置する筒井党の多田城主・多田氏とは度々合戦を繰り返した。1487(文明19年)4月には多田氏が降服している。国中では越智党が筒井党を圧倒する状況で、越智氏と関係を深めていた吐山氏は、1489(延徳元)年に吐山藤満が白石庄の代官職を請け負った。
しかし、1491(延徳3)年5月15日、吐山藤満は興福寺六万衆に攻められて屈伏し、吐山城は焼き払われた。さらに、1498(明応7)年には、台頭した筒井党が越智方の藤満が守っていた吐山城を攻め落とし、筒井党の一族が入ったと思われる。天文年間(1532~55年)には多田延実が吐山城の北に多田城の出城として貝那木山城を築いている。
その後、1559(永禄2)年に松永久秀が大和国に進出してくると、吐山氏は久秀に従う。しかし、久秀は没落すると、1571(元亀2)年、ともに松永氏の支城を守備していた須川城主・簀川氏を不意討ちし、松永久秀を見限って筒井順慶側に寝返った。その後の吐山氏の動向が明らかでない。
城は現在の県道369号線と大和高原広域農道の交差する北側の丘陵に築かれ、大きく、城山の山頂(標高572m,比高100m)と北東尾根に並ぶ主郭とⅡ郭の2つから成る。山頂部に主郭を置き、北西側に堀切がある。また、郭,虎口の一部には石積みの跡がみられる。北東部のⅡ郭は後世に改変を受けた可能性があるが、約40mの郭で大手の登り口を守備する構えである。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 室町時代 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1487年・1491年 | 1498年・1571年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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吐山藤満 | F*** |
吐山城縄張り図(『奈良の城郭』より転載加筆)