【Z-AC035】長田父子磔の松

長田父子磔の松

おさだおやこ はりつけのまつ (Pine Tree Osada Father and Son Were Crucified)

【Z-AC035】探訪日:2021/6/8


【Z-AC035】長田父子磔の松 愛知県知多郡美浜町野間松下105

【MAP】

     

 

【Z-AC035】長田父子磔の松

 1159(平治元)年、平治の乱に敗れた源義朝一行は、東国への逃避行の途中、随行していた鎌田政清の舅である長田忠致のもとに身を寄せた。しかし、忠致,景致父子は平家からの恩賞を目当てに義朝を浴場で騙し討ちにした。忠致は義朝を討った功により壱岐守に任ぜられている。
 後に源頼朝が兵を挙げると、その列に加わる。忠致は頼朝の実父殺しという重罪を負いながらも、頼朝から寛大にも「懸命に働いたならば美濃尾張を与える」と言われ、懸命に働いたという。しかし、平家追討後に頼朝が覇権を握ると、その父の仇として追われる身となり、最後は頼朝の命によって処刑されたという。その折には「約束通り、身の終わり(美濃尾張)をくれてやる」と言われたと伝えられている。
 実際には、処刑の年代や場所,最期の様子については諸説があって判然としないが、ここは長田屋敷のすぐ近くの松の木に磔にされたという言い伝えに基づく場所である。このほかには、1190(建久元)年10月の頼朝の上洛の際に美濃で斬首された説、1180(治承4)年10月に鉢田の戦いで武田信義に討たれたとする説がある。また処刑方法も打ち首や土磔(地面の敷いた戸板に大の字に寝かせて足を釘で打ち磔にし、槍で爪を剥がし顔の皮を剥ぎ、肉を切り数日かけて殺す方法)だった説もある。
 なお、徳川氏譜代家臣の永井氏は忠致の兄・親致(騙し討ちに反対し野間を離れた)の後裔を称している。

【史跡規模】

【指 定】美浜町指定史跡(1991年12月3日指定)
     「伝 源義朝公最期の地」のひとつ
【国 宝】
【国重文】

 

【Z-AC035】長田父子磔の松

関連時代 平安時代:後期 鎌倉時代
関連年号 1159年・1180年 1190年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
源 義朝 G202 鎌田政清 F939 長田忠致 H301
長田景致 H301 源 頼朝 G202 武田信義 G425
長田親致 H301

 

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▲すぐ近くに長田屋敷跡

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