鎌田政清屋敷跡〔正法寺〕

かまたまさきよ やしきあと〔しょうぼうじ〕(Residence Ruins of Masakiyo Kamata [Shobo-ji Temple])

【R-AC075】探訪日:2024/1.17

【R-AC075】鎌田政清屋敷跡 愛知県知多郡南知多町豊丘本郷7

【MAP】

〔駐車場所〕

【R-AC075】鎌田政清屋敷跡

   平安時代後期、源義朝の第一の郎党であった鎌田政清(政家)の屋敷跡であり、現在は正法寺が建つ。
 鎌田氏は首藤氏の流れを汲み、代々源氏に仕え、政清の母は源義朝の乳母でもあったため、義朝からは乳兄弟として最も信頼されていた。1156(保元元)年7月の保元の乱、1159(平治元)年12月の平治の乱にも義朝に従って従軍した。平治の乱では待賢門の戦いで義朝の長男・義平と共に平重盛と戦い活躍するが、六条河原の戦いで源氏が敗れると、義朝が討死しようとするのを引き止めて、義朝の子や大叔父の源義隆、従兄弟の源重成と共に東国を目指して落ちた。
 しかし、義朝主従が政清の舅である尾張国野間内海荘の領主・長田忠致の館にたどり着くと、忠致の裏切りに遭い、義朝は御湯殿で殺害され、政清は酒を飲まされて騙し討ちに遭い、忠致の子・景致の手にかかって殺された。享年38。また、妻(長田忠致の娘)は政清の亡骸のそばで政清の短刀でのどを突いて自害したという。政清夫妻の墓は、義朝と同じ愛知県美浜町の野間大坊の境内に現存する。なお、1185(文治元)年9月3日、政清の首は義朝の遺児・源頼朝によって、義朝の遺骨と共に鎌倉の勝長寿院に葬られた。1194(建久5)年、政清の娘が勝長寿院で父と義朝の追善供養を行っている。頼朝はこの娘に尾張国篠木庄,丹波国名部庄の地頭職を与えている。
 1233(天福元)年、比叡山の徹円阿闍梨が、政清を供養するために屋敷跡に大悲山正法寺(天台宗)を建立した。本尊の毘沙門天像は政清の念持仏と伝わる。本堂は多宝塔造りで、1975(昭和50)年に再建されたものである。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 平安時代:後期 鎌倉時代
関連年号 1159年・1160年 1233年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
鎌田政清 F939 源 義朝 G202 長田景致 H301
徹円 ****

 

【R-AC075】鎌田政清屋敷跡  
  

 

【R-AC075】鎌田政清屋敷跡

<源義朝横死に関係する周辺の史跡>

史 跡 No. 概   要
長田屋敷跡 R-AC045 義朝を暗殺した長田忠致,景致父子の屋敷跡
源義朝横死の湯殿跡 Z-AC060 義朝が入浴中に騙し討ちされた湯殿跡
乱橋跡 Z-AC061 主君の義朝を殺害された家臣らと長田勢が戦ったところ
野間大坊 T-AC011 殺された源義朝と鎌田政清の墓や義朝の首を洗ったとされる「血の池」がある
源義朝墓所 K-AC009 野間大坊にある源義朝の墓所
鎌田政清墓所 K-AC010 野間大坊にある鎌田政清(政家)の墓所
長田父子磔の松 Z-AC035 義朝の子の源頼朝によって長田父子が磔にされた場所
鎌田政清屋敷跡 R-AC075 もとは鎌田政清の屋敷があったとされる正法寺

【R-AC075】鎌田政清屋敷跡 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

門前 多宝塔が本堂