品野城跡

しなのじょうあと(Shinano Castle Ruins)

【C-AC458】探訪日:2021/9/29・2021/10/8

【C-AC458】品野城跡 愛知県瀬戸市瀬戸市上品野町578

【MAP】

〔駐車場所〕登り口手前に駐車スペースがある。

   1214(建保2)年、山田重忠の家臣であった大金重高が一色山城より移り、秋葉山に城を築き品野郷を支配した(品野城は秋葉山城ともいう)。しかし、1221(承久3)年の承久の乱の際に山田重忠と共に大金氏は滅んでしまう。
 1358(正平13/延文3)年、信州国大河原城から移住してきた戸田頼房,宗忠父子が再築城した。元中年間(1384~92年)には宗忠は落合城へ移り、応永年間(1394~1428年)末頃には子の宗繁は、尾張国戸田城へ移ったことで、一時は廃城となった。
 その後、戦国時代に入り、織田信秀の臣・坂井秀忠の居城となったが、1529(享禄2)年に松平清康の大軍に攻め落とされ、秀忠は城中で切腹、残兵の一部は片草へと落ち延びた(のちに片草城築城)。品野城へは桜井松平家の松平信定が入り、家重,家次へと継がれた。 
 その後は松平氏と織田氏との攻防が続く。1558(永禄元)年には、織田信長の家臣・山崎城主の竹村長方が1000の兵で攻めたが、松平家次の逆襲で大敗を喫する。1560(永禄3)年になると、業を煮やした信長は品野台に総攻撃をかける。この頃は藤井松平家の松平信一,戸田直光が城を護ったが、品野城はじめ桑下城,落合城の品野三城とも落城し廃城となった。これが桶狭間の戦いの前哨戦となった。
 品野城跡は、桑下城跡から水野川を挟んだ南西約700mの丘陵上に位置する。館城が桑下城で、品野城は戦の際の詰城と考えられている。城跡は堀切を挟んで北と南に分かれ、北は東西に曲輪が連なり、南は横堀と土塁により南からの尾根を遮断している。現在は、主郭に稲荷神社が祀られている。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 鎌倉時代 南北朝時代 室町時代 戦国時代
関連年号 1214年・1221年 1358年 1394~1428年 1529年・1558年・1560年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
大金重高 **** 戸田頼房 G397 戸田宗忠 G397
戸田宗繁 G397 坂井秀忠 **** 松平信定 MT33
松平家重(清定) MT33 松平家次 MT33 竹村長方 ****
織田信長 OD04 松平信一 MT36 戸田直光 F566

 

【C-AC458】品野城跡
 初回の訪問は『愛知のお城めぐり(旧あさちゃんのお城巡り)』を参考に登城口から途中まで進んだが、体調不良(軽い熱中症?)のため断念。ただ、ほどなく再チャレンジ。落葉や滋賀県の山城でよく経験した砂(小石)状の斜面のため、たいへん滑りやすかったが、何とか主郭へ到達することができた。残念だったのは、主郭の稲荷神社は屋根が倒壊しキツネさんもその下敷きになっていたことである。おそらく東海環状自動車道で登山道が遮断されてから管理も疎かになったのだろうか。瀬戸の歴史のなかでも重要な城跡であり、整備されることを望みたいです。

 

【C-AC458】品野城跡

 

品野城縄張図(『愛知県中世城館跡調査報告』に加筆)

【C-AC458】品野城跡 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

稲荷神社鳥居の東の道を入ると登り口がある 小さな丸木橋を渡る しばらく進み東海環状自動車道をくぐる 自動車道の真下で小川を渡って右へ進む 途中の崖崩れ防止枠 前上方が主郭 虎口 虎口(主郭側から見る) 主郭東側 残念ながら崩れ落ちた稲荷神社 崩れ落ちた稲荷神社 神社側から見た主郭西側 主郭西側 主郭北側の見張り台らしき箇所 主郭南側の堀切 主郭南側の堀切 堀切を上から見る 堀切を上から見る 堀切の下から見上げる 堀切の下から見上げる 堀切を挟んだ主郭南側の曲輪 主郭西側の曲輪 竪堀?(自然地形?) 急斜面(判りづらいですが) 麓の稲荷神社 稲荷神社 稲荷神社 稲荷神社