桑下城跡

くわしたじょうあと (Kuwashita Castle Ruins)

【C-AC446】探訪日:2021/9/29・2021/10/8

【C-AC446】桑下城跡 愛知県瀬戸市上品野町855

【MAP】

〔駐車場所〕

   築城年は定かではないが、文明年間(1469~87年)頃に長江利景(永井民部)が築き、落合城から移ったとされる。1482(文明14)年、応仁の乱の余波として、細川方の長江利景と山名方の今村城主・松原広長が対峙した。長江利景を首将とする品野勢は阿弥陀ヶ峰城を構え、今村勢は勢呼山から安戸坂を攻め上がって布陣し、大槙山で大激戦となり、今村勢は大敗を喫し松原広長は討ち死にした。その後、桑下城は長江景則,景隆の居城となる。
 1529(享禄2)年、松平清康が尾張国に侵攻し、織田方の坂井秀忠,桜木上野介が護る品野城を攻略し、軍功のあった叔父の松平信定に与えたときには、長江氏は家老として桑下城に居城し、その後の品野城主・松平家重(清定),家次に仕えたとされる。桑下城は品野城の館城という見方もある。1558(永禄元)年には織田氏との間で戦闘が行われるが、家次が守将として、これを退けている(山崎城参照)。
 1560(永禄3)年、これまでの織田と今川(松平)の争いに決着をつけるべく、織田信長が品野城総攻撃をかけ、品野三城(品野城・桑下城・落合城)は焼失,落城し廃城となった。
 2005(平成17)年の発掘調査では、その規模は東西約220m,南北約100mとされ、本丸部分の掘立柱建物の基礎、土塁,井戸跡や本丸を囲む東西の薬研堀と北の箱堀構造、そして丘陵西側曲輪の南東側に庭園と思われる空間があったことが明らかになった。さらに出土遺物として14世紀に京都で製作されたと考えられる「菊花双鶴鏡」などの金属製品や什器などの木製品、多くの陶磁器製品が検出されたことから今川氏が関与し改築されたことが窺われる。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 室町時代 戦国時代
関連年号 1469~87年・1482年 1529年・1560年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
長江利景 H540 松原広長 **** 長江景則 H540
長江景隆 H540 松平清康 MT01 松平信定 MT31
松平家重(清定) MT31 松平家次 MT31 織田信長 OD04

 

【C-AC446】桑下城跡
 登り口を教えてくださった地元の方からは、「いまは草ボウボウで何もわからんと思うよ」と言われたが、その通りであった。調査時の名残であろうフェンス(下の調査写真にも見える)が残されており、それを目安に探索したが竹林と雑草に覆われており、全体像が分からないまま撮影した。フェンスに沿った堀跡は何とか認識できたが、本丸の範囲がわからない。地元の方からは北側の道路(名古屋学院大学への道)からも入れる箇所があると聞いたが、そちらも雑草に覆われており進入を諦めた。

 

【C-AC446】桑下城跡

 

桑下城跡調査写真(愛知県埋蔵文化財センター資料)と縄張図(『愛知県中世城館跡調査報告』に加筆)

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遠景(品野城跡下の稲荷神社から見る) 水野川を渡り左へ 登り口 登り口 フェンスに突き当たったら左へ進む 堀跡 堀跡 土橋 土橋から見た堀跡 土橋から見た堀跡