百々城跡

どうどじょうあと(Dodo Castle Ruins)

【C-AC626】探訪日:2023/7.3

【C-AC626】百々城跡 愛知県岡崎市百々町池ノ入

【MAP】

〔駐車場所〕七所神社もしくは近くのショッピングセンターの駐車場を利用させていただく。

【C-AC626】百々城跡

   築城年は定かではないが、1426(応永33)年頃、松平宗家3代の松平信光が松平郷から岩津へ移住の際、青山権之尉光教が百々に城を築いたともいわれる。もともと青山氏は上野国吾妻郡青山郷の出身であるが、青山忠門のとき近江国から三河国額田郡百々村へ移り土着した。忠門は松平広忠に仕え、1548(天文17)年の小豆坂の戦いに初陣。1560(永禄3)年の桶狭間の戦い、1563~64(永禄6~7)年の三河一向一揆でも上和田城を守備し徳川家康方として戦った。
 1571(元亀2)年4月、武田勢の秋山伯耆守虎繁と松平源九郎が岩津で戦った際(広美の戦い)、阿知波右衛門,宇野小兵衛らとともに松平に加勢したが、忠門は真福寺附近まで出向いて奮戦し、銃撃で受けた傷がもとで亡くなっている。「青山府君碑」が墓地とされる。
 子の青山忠成も幼い頃から家康に仕えており、徳川秀忠の守り役を務めるなどし、1590(天正18)年の家康関東移封に伴い、相模国高座郡5,000石を得て移ったことで、百々城は廃城となった。
 城は標高40m,比高10mの丘陵上に築かれていたが、現在は林の中に青山忠門の墓碑が建つのみで、周囲は住宅地となり、遺構は残されていない。
 ちなみに東京都の「港区青山」「青山通り」の名称は、青山忠成の江戸屋敷があったことを由来としている。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 室町時代 戦国時代
関連年号 1426年 1548年・1571
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
青山光教 F735 青山忠門 F735 青山忠成 F735

 

【C-AC626】百々城跡

 

 

【C-AC626】百々城跡

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七所神社の東に見える林が百々城跡 南側に入り口がある 青山府君碑 青山府君碑 青山府君碑の裏書 青山府君碑 青山府君碑 北側のこちらからも入れる 北側の登り口