小早川秀秋陣跡〔関ヶ原古戦場〕
こばやかわひであき じんあと〔せきがはらこせんじょう〕(Encampment Ruins of Kobayakawa Hideaki [Historic Battlefield of Sekigahara])
【B-GF001b14】探訪日:1990/6.3・2026/4.19
岐阜県不破郡関ケ原町山中
【MAP】
〔駐車場所〕松尾山登り口に駐車場がある。
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1600年(慶長5)年10月21日(9月15日)、関ヶ原の戦いにおける小早川秀秋軍の陣跡である。関ヶ原台地の南に位置し関ヶ原を眼下に全貌できる松尾山山頂(松尾山城主郭)である。
当初は西軍として同年7月18日からの伏見城の戦いにも参戦していたが、その後、京都や近江に在陣して一人戦線を離れていた。本戦の前日の9月14日、秀秋はこれまで石田三成の命で松尾山城の改修を行っていた伊藤盛正を追い出して、突如として、8,000とも1万5,000ともされる軍勢を率い、入城し布陣した。
9月15日午前8時頃、関ヶ原の戦いが始まると、秀秋は東西両軍が激突するなか、松尾山から傍観。秀秋は本戦の開始前より、家康に西軍を離反することを浅野長政を通じて伝えていたとされ、東軍から奥平貞治や大久保猪之助が目付として派遣されていた。家康はたびたび使者を送ったにもかかわらず、傍観し続ける秀秋に苛立ち、秀秋の陣へ鉄砲を撃ちかけたとされる(諸説あり)。これにより、秀秋は東軍への加勢を決意し、正午頃、秀秋軍は松尾山を下り、西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかった(小早川勢で一手の大将・松野重元は、秀秋の離反に納得できず無断で撤退している)。一旦は、大谷部隊に前線から引き返した平塚為広・戸田勝成軍が加わったことで数回にわたり山へ押し戻されたが、秀秋自ら指揮を取って本隊を進めさせ、大谷勢と激戦に及んだ。この激戦で東軍の目付・奥平貞治が重傷を負い、後に死亡している。
秀秋の離反から連鎖的に生じた脇坂安治,朽木元綱,小川祐忠,赤座直保らも西軍から離反し、大谷勢は潰滅して吉継,平塚為広,戸田勝成の諸将は討死した。これにより、西軍の敗北は決定的となった。
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【史跡規模】
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【指 定】 |
| 関連時代 | 安土桃山時代 |
|---|---|
| 関連年号 | 1600年 |
| 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
|---|---|---|---|---|---|
| 小早川秀秋 | H483 | 松野重元 | **** | 奥平貞治 | KD13 |
| 大久保猪之助 | F6** |
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<関ヶ原合戦 布陣図(開戦前)>

(現地パンフレットを一部編集)
<関ヶ原古戦場 関連史跡>
| 西軍(戦力総数:80,000以上) | 東軍(戦力総数:74,000~104,000) | ||
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石田三成陣地・島左近陣跡・島津義弘陣跡・小西行長陣跡 |
桃配山(徳川家康最初陣跡)・床几場(徳川家康最後陣跡) |
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| 傍観軍 |
吉川広家陣跡・安国寺恵瓊陣跡・毛利秀元陣跡 |
反応軍 | 脇坂安治陣跡・小早川秀秋陣跡 |
| 開戦地・決戦地 | |||
| 西首塚・東首塚 | |||