竹中半兵衛重治生誕の地

たけなかはんべいしげはる せいたんのち(Birthplace of Takenaka Hanbe Shigeharu)

【Z-GF011】探訪日:2026/5.10

【Z-GF011】竹中半兵衛重治生誕の地 岐阜県揖斐郡大野町公郷1812-1

【MAP】

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【Z-GF011】竹中半兵衛重治生誕の地

   1544(天文13)年9月11日、のちに織田信長,豊臣秀吉の名軍師として黒田官兵衛とともに「二兵衛」と称された竹中半兵衛重治の誕生の地である。大御堂城にて、竹中重元と杉山久左衛門の娘(妙海大姉)との間に2男として生まれた。
 1556(弘治2)年、長良川の戦いでは斎藤道三に味方したが、父が不在のため代わりに初陣ながら大将を務めた。籠城戦の末、斎藤義龍の軍を退けている。1558(永禄元)年、父は不破郡岩手城主・岩手弾正を攻略し、翌年、菩提山城を築いて居城を移すと、重治もこれに従う。1560(永禄3)年には、父の死去または隠居により家督を相続し、菩提山城主となった。
 そして、長良川の戦いで勝利した斎藤義龍に仕え、その後、斎藤龍興に仕える。龍興のもとでは織田信長の美濃侵攻をよく防いだが、主君・龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとせず、一部の側近だけを寵愛して重治や西美濃三人衆を政務から遠ざけていた。このため1564(永禄7)年2月6日白昼、舅・安藤守就の軍勢とともに龍興の居城・稲葉山城を襲い、龍興を逃亡させた。その後、龍興が稲葉山城を奪還し、重治は小谷城の浅井長政の客分として東浅井郡草野に3,000貫の禄を賜るが、約1年で禄を辞して旧領の岩手へと帰り、隠棲した(隠棲地は栗原城とされる)。
 1570(元亀元)年夏、木下秀吉の誘いで織田信長の直臣となり、小谷城攻略にあたり、浅井家臣団との人脈を利用して、主に調略活動で活躍した。また、横山城の戦いでは瀕死の加藤光泰を救出している。
 秀吉が中国攻めの総大将に任じられると、重治は秀吉に従って中国遠征に参加する。1577(天正5)年11月、秀吉幕僚の黒田孝高とともに播磨の福原城を攻め、備前八幡山城を調略によって落城させている。同年、信長に謀反を起こした荒木村重に対して、黒田孝高が有岡城へ赴き帰服を呼びかけるが、城内で捕縛・監禁され外部との連絡を断たれたため、信長は孝高が村重に加担したと思い込み、孝高の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を秀吉に命じた。しかし重治は信長の首実検に際し、秀吉に偽の首を提出させることで松寿丸の命を助け、松寿丸は自身の領地に引き取り、家臣の不破矢足の屋敷に匿った。のち、助け出された孝高はこのことを非常に感謝し、竹中家の家紋を貰い受けている。
 1579(天正7)年4月、播磨三木城の包囲中に病に倒れ、陣中で6月13日に死去した。享年36。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1544年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
竹中重治 G144


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