栗原城跡

くりはらじょうあと(Kurihara Castle Ruins)

【C-GF092】探訪日:2026/4.28

【C-GF092】栗原城跡 岐阜県不破郡垂井町栗原

【MAP】

〔駐車場所〕

【C-GF092】栗原城跡

  築城年は定かではないが、城主に栗原右衛門尉義師の名がある。栗原城は標高235mの栗原山の山腹(標高214m,比高146m)に築かれたとされる。
 1525(大永5)年春、近江の浅井亮政が8,000余の軍勢を率いて美濃に侵攻し、垂井から大垣城を攻撃した。さらに同年秋には、越前朝倉氏の応援を受け再び来攻し、革手城へと向かってきた。そこで、不破河内守,稲葉備中守通則,九茂兵庫頭,国枝宗龍・貞次ら500余騎が栗原山へ馳せ向かい、射手200余人を前に立てて待ち受けたところ、亮政は退き牧田に拠った。革手城からは土岐頼芸は1,700余騎を率いて栗原山に到着し牧田に押し寄せ、亮政の先陣を崩し勇戦したが、やがて近江勢が優位となり、駆けつけた稲葉氏,国枝氏,丸茂兵庫頭らも奮戦したが討ち取られたという。夕暮れには浅井勢は美濃勢の来援が次々を増すため近江へ引き揚げていった(牧田合戦)。
 1565(永禄8)年、前年に主君・斎藤龍興を稲葉山城から追放した竹中半兵衛重治が、龍興に城を返還してのち居城の菩提山城を去り、浅井氏の客分として1年ほど過ごしたのち、再び旧領の岩手へと戻った。このとき、菩提山城ではなく栗原山で隠棲生活を送ったと伝えられている。
 次に栗原城が歴史上に登場するのは、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いのときである。西軍に属した長宗我部盛親が伊勢より北上し、栗原城の主郭に陣を構えた(長宗我部盛親陣跡)。
 なお、栗原山中腹には栗原九十九坊跡があり、主郭の平坦地もかつては寺域であったと考えられている。また、主郭には「栗原連理の榊」と呼ばれる推定樹齢400年の古木があり、その枝が連理状態になっていることから「縁結びの榊」と言い伝えられている。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】

【国重文】

関連時代 戦国時代 安土桃山時代
関連年号 1525年・1565年 1600年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
栗原義師 **** 浅井亮政 F562 稲葉通則 OC08
国枝宗龍 F*** 国枝貞次 F*** 丸茂兵庫頭 ****
土岐頼芸 G135 竹中重治 G144 長宗我部盛親 HT08


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