増上寺
ぞうじょうじ(Zojo-ji Temple)
【T-TK001】探訪日:2026/5.30
東京都港区芝公園4丁目7-35 <📲:03-3432-1431>
【MAP】
〔駐車場所〕
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9世紀、空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚に建立した光明寺が前身とされるが、1393(明徳4)年、浄土宗第8祖・酉誉聖聡の時に真言宗から浄土宗に改宗し、寺号も三縁山増上寺と改めたため、この聖聡が実質上の開山とされる。
聖聡の弟子には、信光明寺(松平信光開基)の開山・釋誉存冏や、大恩寺(松平親忠開基)の開山・了暁慶善がおり、松平親忠の第4子で知恩院25世の超誉存牛や、大樹寺開山の勢誉愚底はいずれも聖聡の孫弟子であり、中世から松平氏や徳川氏とのつながりが深かった。
中世以降、徳川家の菩提寺となるまでの歴史は必ずしも明らかでないが、通説では1590(天正18)年8月、徳川家康が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかり、十二世の源誉存応と対面したのが徳川家の菩提寺となるきっかけだったという。貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い、1598(慶長3)年、家康によって現在地の芝へ移された。風水学的には、寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられる。
また、徳川家の菩提寺であるとともに、檀林(学問所及び養成所)がおかれ、関東十八檀林の筆頭となった。なお、1680(延宝8)年6月26日に行われた将軍・徳川家綱の法要の際、奉行の一人で志摩国鳥羽藩主・内藤忠勝が、同じ奉行の丹後国宮津藩主・永井尚長に斬りつけるという刃傷沙汰を起こしている(芝増上寺の刃傷事件)。また、1701(元禄14)年3月14日には、江戸下向した勅使が増上寺を訪れる際の畳替えをめぐり、勅使饗応役の浅野長矩が吉良上野介義央を斬りつける殿中刃傷事件が起きている。なお、長矩は内藤忠勝の甥である。
明治維新直後には、神道国教化政策のため、参道には通常は神社に建てられる鳥居が置かれた。徳川幕府の崩壊、明治維新後の神仏分離の影響により規模は縮小し、境内の広範囲が芝公園となった。
1923(大正12)年の関東大震災、太平洋戦争中の大空襲によって徳川家霊廟や五重塔をはじめとした遺構を失う大きな被害を受けた。
境内には、1622(元和8)年建立で戦災を免れた建物の1つである三解脱門、室町期の阿弥陀如来像と脇仏に法然上人像・善導大師像を祀る大殿(1974年の再建)、室町時代の恵心僧都作とされる秘仏の阿弥陀如来「黒本尊」を祀る安国殿、慈雲閣(開山堂)などがある。
増上寺には、徳川将軍15代のうち6人(秀忠,家宣,家継,家重,家慶,家茂)が葬られている。第二次世界大戦前には各霊廟は旧・国宝に指定され、その壮大さは日光東照宮に引けを取らないものだったが、1945(昭和20)年の2度の空襲で、その建造物群のほとんどを焼失した。現在は台徳院(秀忠)霊廟の門4棟,有章院(家継)霊廟二天門,文昭院(家宣)霊廟奥院中門(鋳抜門)、ならびに文昭院・有章院等の宝塔8基を残すのみである。
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【史跡規模】
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【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
| 関連時代 | 室町時代 | 安土桃山時代 |
|---|---|---|
| 関連年号 | 1393年 | 1590年・1598年 |
| 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
|---|---|---|---|---|---|
| 酉誉聖聡 | **** | 徳川家康 | TG01 | 徳川秀忠 | TG02 |
| 徳川家宣 | TG03 | 徳川家継 | TG03 | 徳川家重 | TG04 |
| 徳川家慶 | TG06 | 徳川家茂 | TG06 |
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増上寺徳川家墓所に立つ宝塔(Wikipediaより転載)