片原一色城跡

かたはらいっしきじょうあと(Katahara Isshiki Castle Ruins)

【C-AC708】探訪日:2026/9.22・10.8

【C-AC708】片原一色城跡 愛知県稲沢市片原一色町如来

【MAP】

〔駐車場所〕

【C-AC708】片原一色城跡

   埋蔵文化財包蔵地の正式名称は「一色城跡」であるが、愛知県内には「一色城」がいくつもあり、一般的にも、また『愛知県中世城館調査報告』でも使用されている「片原一色城跡」を用いる。
 築城年は定かではないが、建仁年間(1201~02年)頃、一色左京大夫満吉が築き、6代続いたとも伝わるが確証はない。
 応永年間(1394〜1428年)頃、南北朝時代には南朝方として戦った橋本伊賀守宣都寺が築いたとされ、2代・橋本寛勢,3代・橋本正秀,4代・橋本俊信,5代・橋本一巴,6代・橋本道一,7代・橋本道正,8代・橋本正太と8代に亘って続いた。橋本氏は南北朝時代の楠木正成・正行の子孫とも、正成の甥・橋本刑部の子孫ともされるが、系図上では確認できない。
 橋本氏は、片原一色城を中心として三宅城,井堀城,儀長城,矢合城を築き、尾張国中島郡での勢力を拡大した。
 5代の橋本一巴は当初は蜂須賀小六に属したが、鉄砲撃ちとしての技量が織田信長の耳に達して召抱えられ、信長の火縄銃の師匠にもなった。1558(永禄元)年の浮野の戦いでは、弓の達人・林弥七郎と鉄砲対弓矢の戦いを演じたが、脇に深く矢を射られ相打ちする形で戦死した。
 6代の橋本道一も織田信長・織田信雄に仕えていたが、その後は豊臣秀吉・加藤清正に仕えた。慶長の役の際には鉄砲隊150名の頭に選ばれたが、その矢先に肥前国名護屋の陣中で1596(慶長元)年に病死した。その後、7代の道正は肥前国へ移り、8代の勘太郎正太は幼くして父・道正を亡くし、肥後国熊本へと移り、のちに一族も熊本へと移住した。
 片原一色城は1615(元和元)年の一国一城令により、他の支城である三宅城,井堀城,儀長城,矢合城ともに廃城となった。
 城跡については詳細な所在地が長らく絞り込めていなかったが、2018年頃からは、光堂川を南の堀として北の神明社を含む片原一色町如来地区とされてきた。しかし、近年の発掘調査では、さらに北の地区での発掘調査が行われ、堀跡(北堀・東堀)や土塁の痕跡が見つかっており、こちらが橋本伊賀守時代の城跡とみられている。規模は約1丁(109ⅿ)四方と見込まれる。西には「馬出」という地名も残っている。
 なお、城址碑は光堂川の北、神明社の東の尾張水道みち沿いに建てられている。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】

【国重文】

関連時代 室町時代 戦国時代 安土桃山時代 江戸時代:前期
関連年号 1394〜1428年 1558年 1596年 1615年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
橋本宣都寺 TB19 橋本寛勢 TB19 橋本正秀 TB19
橋本俊信 TB19 橋本一巴 TB19 橋本道一 TB19
橋本道正 TB19 橋本正太 TB19


【C-AC708】片原一色城跡



【C-AC708】片原一色城跡


片原一色城跡(『愛知県埋蔵文化財センター調査報告書』を参考に作図)

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一色城碑 神明社 神明社 城跡とされる北部(堀跡辺り) 城跡とされる北部(堀跡辺り) 城跡とされる東部(堀跡辺り) 主郭跡 主郭跡 主郭跡 南西から見た主郭跡