松平忠吉墓所〔性高院〕
まつだいらただよし ぼしょ〔しょうこういん〕(Grave of Matsudaira Tadayoshi [in Shoko-in Temple])
【K-AC279】探訪日:2026/10.6
愛知県名古屋市千種区幸川町3丁目6-6
【MAP】
〔駐車場所〕
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1607(慶長12)年3月5日、享年28で亡くなった尾張清洲藩主・松平忠吉の墓所である。殉死した小笠原吉光,石川吉信,稲垣将監,佐々記内(中川清九郎)とともに性高院の南側にある。性高院は忠吉が忍城主時代に母・西郷局(宝台院)の菩提を弔うために創建した寺院である(当初は、攝受院正覚寺を再興したもので、尾張移転後に忠吉の法号にちなんで性高院となる)。
また、松平忠吉の墓所の左側には江戸中期の尾張藩家臣の天野信景と松平君山の墓石、奥には双体地蔵石碑(市有形民俗文化財)があり、これには松平忠吉とその重臣であった奥津氏が刻まれている。
松平忠吉は遠江浜松城下に徳川家康の4男として生まれ、1581(天正9)年、東条松平家第3代当主の松平家忠が病死すると、その家督を継いで三河東条城1万石を領する。1582(天正10)年、駿河沼津城4万石に転封された後、家康の関東移封とともに武蔵国忍城主となり10万石を与えられる。
関ヶ原の戦いでは、忠吉は舅の井伊直政とともに先駆けし戦端を開いたことで知られる(「松平忠吉・井伊直政陣跡」参照)。その武功により忍城主から尾張国・美濃国52万石をもって尾張清洲藩主となる。
1604(慶長9)年末には、一時、腫物を患い、危篤状態に陥るが投薬により蘇生した。しかし、1606(慶長11)年5月には知多郡で湯治を行ったが病は治らず、翌1607(慶長12)年に江戸へ下向し、家康・秀忠と面会した数日後の3月5日に死去した。尾張藩士4名が殉死した。忠吉の死をもって東条松平家は断絶となった。
正しい器量を備えた美男子で人望も厚く、天下の諸侯が忠吉のためには命も惜しくないとこぞとかしずいたという(『武野燭談』)。
なお、忠吉の遺骨は豊田市の隣松寺にも分骨され、松平忠吉墓所がある。