松平忠吉・井伊直政陣跡〔関ヶ原古戦場〕
まつだいらただよし・いいなおまさ じんあと〔せきがはらこせんじょう〕(Encampment Ruins of Matsudaira Tadayoshi and Ii Naomasa [Historic Battlefield of Sekigahara])
【B-GF001b06】探訪日:1990/6.3・2026/4.19
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原
【MAP】
〔駐車場所〕岐阜関ケ原古戦場記念館の駐車場を利用する。
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1600年(慶長5)年10月21日(9月15日)、関ヶ原戦場の中央にあたる地に松平忠吉と井伊直政が約6,000の兵で陣を構えた。松平忠吉は徳川家康の4男でこの戦いが初陣、井伊直政は忠吉の義父にあたり、その後見として、陣をともにした。もともとの陣の位置は、現位置から約200m東ほどにあったとされる。
午前8時頃、軍監の本多忠勝より開戦を促されると、井伊直政は忠吉を伴い数十騎で、本来は先陣を切ることになっていた福島正則陣の脇を進み、西軍の宇喜多秀家隊の前面に出た。正則の家臣・可児才蔵吉長にとがめられたが、初陣の忠吉に合戦の見聞させたいと弁明して、そのまま宇喜多隊に近づき発砲した。この抜け駆けが戦端となり、天下分け目の関ヶ原の戦いが始まった。忠吉が初陣を飾るため抜け駆けしたとも、豊臣方の福島正則ではなく徳川方から戦端を開く政治的な行動だったともいわれる。抜け駆けは軍事違反であるが、戦後処分の対象になっていない。
午後、勝敗がほぼ決すると、島津義弘隊は敵前を突っ切り退却するという前代未聞の行動をとった。井伊直政・松平忠吉は追撃軍として、その殿と戦いながら島津義弘に追い迫り、1600騎が100騎あまりになった頃、島津の鉄砲隊の柏木源藤が放った銃弾が直政の右腕を貫通、さらに別の銃弾が足にも命中して落馬した。重傷を負った直政は、やむなく追撃を断念した。直政はこの傷がもとで、2年後の1602(慶長7)年に42歳の生涯を閉じている。また、忠吉も島津追撃戦で負傷し、1607(慶長12)年に28歳の若さで世を去った。
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【史跡規模】
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【指 定】 |
| 関連時代 | 安土桃山時代 |
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| 関連年号 | 1600年 |
| 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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| 松平忠吉 | MT35 | 井伊直政 | F442 |
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<関ヶ原合戦 布陣図(開戦前)>

(現地パンフレットを一部編集)
<関ヶ原古戦場 関連史跡>
| 西軍(戦力総数:80,000以上) | 東軍(戦力総数:74,000~104,000) | ||
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桃配山(徳川家康最初陣地跡)・陣場野/床几場(徳川家康最後陣地跡) |
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| 傍観軍 | 反応軍 | 脇坂安治陣跡・小早川秀秋陣跡 | |
| 開戦地・決戦地 | |||
| 東首塚・西首塚 | |||