高縄城跡

たかなわじょうあと(Takanawa Castle Ruins)

【C-AC265】探訪日:2019/8.26・2023/2.27

 愛知県豊橋市老津町字西高縄77-1

【MAP】

〔駐車場所〕近くの太平寺の駐車場を利用させて頂いた(太平寺も探訪)。

   大津城とも老津城とも言う。戸田宗光が三河国渥美郡に最初に入った拠点である。1475(文明7)年、三河国碧海郡上野に拠点を置いていた戸田宗光が知多郡河和経由で東三河の渥美郡に進出し、高縄城に入った。1479(文明11)年には高縄から田原へ移り、田原城を築いた。
 1493(明応2)年、宗光は渥美郡支配を強めるために同郡北端に新築した二連木城へ移り住み、田原城は子の戸田憲光に譲った。このとき、高縄城の役割は一時的に低下するが、吉田川(豊川)西岸から牧野氏が渥美郡に進出し、今橋城(吉田城)を築いて戸田氏に対抗すると、田原城と二連木城の連携に欠かせない城として再び重要度が高まった。宗光は1500(明応9)年、船形山の戦いで今川氏に討ち取られ死去するが、その後もたびたび吉田,田原で戦が起こり、高縄城は重要拠点として使われた。
 その後、三河統一を図る徳川家康によって攻略され、家康は戸田忠次を城主に任じている。1590(天正18)年の家康の関東移封、または、江戸時代の一国一城令により廃城となった。
 現在、城址は豊橋市立家政高等専修学校の敷地となっており、校門近くに城址標柱がある。また、学校の北側と西側に堀や土塁の遺構を確認できる。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 室町時代 戦国時代
関連年号 1475年 1479年・1493年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
戸田宗光  F529 戸田憲光 F529 戸田忠次 F529

 


 前回2019年8月に訪れたときは学校入り口,校舎が工事中で城址碑も一時撤去されていたため、日を改めて訪れることにしていた。今回、渥美半島方面の城跡探訪の途中に立ち寄ってみた。城址碑を確認でき、学校西側の土塁(畑地造成跡ともいわれるが)も見ることができた。さらに道路を挟んだ土塁と思われた北側の林へ入ったみたところ、空堀と低い土塁を設けた平坦地であることがわかり、土塁というよりも腰曲輪跡のような印象を受けた(後世の加工でなければ)。

 

 

高縄城縄張図(『愛知県中世城館跡調査報告』に加筆)と『浅野文庫諸国古城之図の世界』掲載古図

【C-AC265】高縄城跡 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

豊橋市立家政高等専修学校 正門前の城址碑 学校の北側 学校の西側 主郭西側の土塁 堀切跡 土塁上 土塁上 土塁の南側 土塁の南側 学校北側の林にある空堀 学校北側の林にある空堀 学校北側の林にある空堀 学校北側の林にある空堀 学校北側の林にある平坦地 学校北側の林にある平坦地 学校北側の林にある平坦地 学校北側の林にある平坦地 学校北側の林にある平坦地の土塁 学校北側の林にある平坦地の土塁 2019年8月探訪時 2019年8月探訪時