本多忠高墓碑

ほんだただたか ぼひ(Gravestone ob Tadataka Honda)

【K-AC027】探訪日:2014/9/14・2020/3/15

【K-AC027】本多忠高墓碑 愛知県安城市安城町赤塚

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-AC027】本多忠高墓碑

   父の本多忠豊同様、松平清康や松平広忠に仕えた。1547(天文16)年、松平一族の松平信孝が家督を狙い反乱を起こした際にも出陣し、また、翌年、尾張国の織田信秀が三河国に侵攻すると、今川氏の太原雪斎と広忠は小豆坂にて迎撃し、忠高もそれに従い織田軍と戦い、勝利を収めた(小豆坂の戦い)。
 しかし、1549(天文18)年3月、松平広忠が岡崎城内で岩松八弥に暗殺され、松平氏や三河国人衆は大きく動揺すると、今川義元は三河国人衆が織田方に寝返ることを恐れ、太原雪斎を送って織田氏の三河国の拠点で織田信広が守る安祥城を攻めさせた(第三次安城合戦)。先鋒となった忠高は大久保忠俊らとともに夜襲をかけ戦果を収めたが、翌日の戦いで城の主郭まで深入りし敵の矢に当たって討死した。本多忠高墓所は妙源寺にあるが、1797(寛政9)年、ここ戦死地にも岡崎藩主の本多忠顕によって墓碑が建てられている。
 なお、忠高の子・鍋之助は忠高の弟の忠真によって欠城に引き取られ、元服して本多忠勝と名乗った。

【史跡規模】

【指 定】安城市指定史跡(1963年10月1日指定)

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代 江戸時代:中期
関連年号 1549年 1797年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
本多忠高 F525 松平広忠 MT01 織田信広 OD03
本多忠真 F525 本多忠勝 F526 本多忠顕 F527

 

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▲旧説明板