大崎城跡

おおさきじょうあと(Osaki Castle Ruins)

【C-AC566】探訪日:2023/2.27

【C-AC566】大崎城跡 愛知県豊橋市船渡町城戸中

【MAP】

〔駐車場所〕

   築城年は定かではないが、1519(永正16)年頃、田原城主の戸田宣成が牧野氏の今橋城(吉田城)に備えて築いた城である。
 1505(永正2)年、牧野古白(成時)が築いた今橋城(吉田城)は、翌1506(永正3)年には今川方の伊勢宗端(後の北条早雲)と田原城主・戸田憲光によって落城し、牧野古白は討死した。憲光は次男の戸田宣成を城主として守らせた。1519(永正16)年、牧野氏は今川氏と関係修復し、牧野古白の遺児である牧野三成,信成兄弟が今川の大軍と共に今橋城を奪取し、宣成は田原城へと退いた。その後、宣成は牧野氏の抑えとして伊庭藤太の居城であった大崎城を本格的な改修した。
 1529(享禄2)年、今度は東三河に侵攻してきた松平清康によって吉田城は落とされ、城主・牧野信成は討死。田原城主・戸田宗光らは勢いに乗る清康に降った。だが、吉田城には、松平方に通じた牧野成敏が城主として入った。
 松平清康が1535(天文4)年に守山崩れで横死すると松平勢力は急速に減退し、東三河は混とん状態となる。大崎城の戸田宣成はこれを好機ととらえ、1537(天文6)年に吉田城を襲い、牧野成敏を追い出して20年ぶりに奪還を果たした。
 1546(天文15)年、この頃には遠江を平定していた今川氏は、牛久保城主・牧野保成の要請を請けて戸田宣成の今橋城を陥落させた。宣成は討死し、その翌年には戸田氏の本拠・田原城も今川勢によって落とされた。この戦いの中で大崎城も廃城となったと考えられる。
 その後、1601(慶長6)年、旗本の中島重好によって大崎城を再整備し、西側隣接地に陣屋を構えて三河湾の警備職を担い幕末まで存続したという。
 城は梅田川が三河湾に注ぐ河口部の丘陵に築かれ、城址碑のある龍源院の北が主郭となり、東側に土橋,虎口を持つ。主郭の東が二郭(現在の豊橋平安寮)、北の幸稲荷神社が三郭とされ、主郭と龍源院,二郭,三郭の間には三河でも有数の大規模な空堀が巡らされている。なお、空堀の側面の一部にコンクリートで塞がれているところは、太平洋戦争中の防空壕跡である。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号

1506年・1519年・1529年

関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
戸田宣成 F529 牧野古白(成時) MC01 戸田憲光 F529
牧野信成 MC01 伊庭藤太 **** 松平清康 MT01
戸田宗光 F529 牧野成敏 MC01 牧野保成 MC01
中島重好 ****

 

【C-AC566】大崎城跡
 主郭を巡る空堀は、東三河最大級といわれるだけあって見応え充分である。倒木でのケガには注意が必要。残念なのは主郭である。一面の竹やぶで特に枯れて倒れた竹が行く手を阻む。バキバキと音を立てながら歩くが、限界がある(足が入らない)。北や東の土塁も見事ではあるが、写真で伝えきれないのが残念。説明板の設置と空堀含めた整備復元を行えば、貴重な史跡となると思う。

 

【C-AC566】大崎城跡

 

大崎城縄張図(『愛知県中世城館跡調査報告』に加筆)

【C-AC566】大崎城跡 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

龍源院参道入り口に城址碑がある 龍源院 幸稲荷神社(三郭)へ向かう道:左側は家臣屋敷跡とされる 幸稲荷神社(三郭)へ向かう道:右側は御殿,役所跡とされる 正面に幸稲荷神社(三郭) 幸稲荷神社の鳥居 三郭 三郭の土塁 三郭 主郭土橋への入り口(豊橋平安寮の南西角) 土橋 土橋(主郭側から見る) 土橋を渡った左側の土塁 土橋を渡った右側の土塁 主郭全体が竹藪状態 井戸跡(周りは有刺鉄線が張られている) 謎のくぼみ 謎のくぼみ 主郭北西側の土塁 主郭北西側の土塁 土橋北側から降りて反時計周りに空堀内を歩く(土橋を見上げる) 主郭と二郭の間の空堀 防空壕跡がいくつかある(コンクリートで封鎖) 主郭と三郭の間の空堀 左上が三郭 主郭上から空堀を見下ろす 一旦、梅田川岸へ出る 梅田川岸 ここから再び空堀に入る(わかりづらいが) ロープが張られている 主郭と龍源院の間の空堀 龍源院北側、主郭南の空堀 土橋の南側へ到達 ここを上がると主郭西南部 ここを上ると龍源院墓地