興福寺
こうふくじ(Kofuku-ji Temple)
【T-NR007】探訪日:1995/3.28・2025/12.13
奈良県奈良市登大路町48 <📲:0742-22-7755>
【MAP】
〔駐車場所〕
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645(大化元)年頃に中臣鎌足が釈迦三尊像を造立し、669(天智天皇8)年に鎌足の妻の鏡王女が山階陶原に山階寺を造営して鎌足の釈迦三尊像を安置したのが始まりという(異説あり)。その後、672(天武天皇元)年に飛鳥浄御原宮に都が移ったのに伴い、寺も大和国高市郡厩坂に移転して厩坂寺と号した。ただ、山階寺,厩坂寺については『日本書紀』には見えない。
710(和銅3)年に平城京遷都が行われると、厩坂寺は鎌足の子・藤原不比等により平城京左京3条7坊に移され、興福寺と号した。興福寺の造営開始時期は不明であるが、714(和銅7)年3月には金堂(後の中金堂)がようやく完成に近い状態となった。
その後、不比等が没した720(養老4)年には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、藤原氏の隆盛のもと、異例ともいえる官司による私寺の造営は進んでいく。721(養老5)年、元明天皇・元正天皇が不比等の慰霊のために北円堂を建立。726(神亀3)年7月には聖武天皇が元正太上天皇の病気平癒を祈念して東金堂を建立し、730(天平2)年秋には聖武天皇の妻・光明皇后が五重塔を建立している。734(天平6)年には光明皇后が母・県犬養三千代の菩提を弔うために西金堂を建立、その他、南大門,中門,回廊や講堂,食堂,僧房なども含めて、744(天平16)年頃までには興福寺の伽藍がある西院はほぼ完成したものと推定される。
続いて興福寺本坊の東側にあったとされる東院の伽藍も造営された。761(天平宝字5)年2月に藤原仲麻呂が聖武天皇と光明皇后の慰霊のために西桧皮葺堂(西堂)を建立、764(天平宝字8)年には称徳天皇の勅によって造られた百万小塔が分置されたという東瓦葺堂(東堂,小塔堂)が建立、藤原永手のためにその夫人と子息の発願によって771(宝亀2)年、桧皮葺後堂(地蔵堂)が建立された。東院伽藍にはさらに僧房と小子房が附属していたという。こうして興福寺の造営は奈良時代後期にほぼ完了したものと考えられている。813(弘仁4)年に藤原冬嗣によって父・藤原内麻呂の追善供養のために南円堂が建立され、中心伽藍はこの仏堂の建立をもって完成した。
興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家・藤原北家との関係が深く、藤原氏の氏神として創建された春日社(現・春日大社)と次第に神仏習合の関係を築き上げた。974(天暦元)年より春日社頭での読経を開始し、本地垂迹思想が進むにつれて当寺は春日社との一体を主張するに至った。こうした興福寺と春日社との関係は、春日社の神威をかざしての神木動座・入洛強訴という手段に使われ、朝廷・廟堂を悩ませた。神木動座・入洛はおよそ70回にも及んだという。さらには、大和国一国の荘園のほとんどを興福寺が領するようになり、事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺と共に「南都北嶺」と称された。970(天禄元)年に定昭の創立した一乗院と、1087(寛治元)年に隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。
興福寺は創建以来、度々火災に見舞われ、その都度再建を繰り返してきた。特に中金堂は失火や兵火,落雷により七度も焼失している。なかでも1046(永承元)年12月24日の大火では北円堂を残して全山が焼失し、また、1181(治承4)年12月28日には平重衡による南都焼討により、東大寺と共に大半の伽藍が焼失した。復興事業は、朝廷と藤原氏長者,興福寺の3者で費用を分担して実施されている。興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。しかし、建物が完成している一方で本尊ができていないことに業を煮やした東金堂の衆徒が、1187(文治3)年3月、飛鳥の山田寺に押しかけて金銅丈六薬師三尊像(現・銅造仏頭)を運び出し、完成していた東金堂の本尊とした。
鎌倉時代から室町時代には大和武士と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、鎌倉幕府や室町幕府は守護を置くことができなかったが、安土桃山時代についに豊臣秀吉に屈することとなった。1595(文禄4)年の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1,000余石とされた。また、江戸幕府からも寺領2万1,000石を認められている。
江戸時代には大火もあり衰退の兆しを示す。再建資金を捻出できず再興は進まず、1741(寛保元)年4月に南円堂がようやく立柱し、1819(文政2)年9月に町屋の篤志家達の寄付によって中金堂仮堂が再建された。しかし、1868(慶応4)年3月に神仏分離令が出されると、廃仏毀釈の時流の中で春日大社と一体関係にあった興福寺は大きく動揺した。興福寺住僧は門跡から仕丁に至るまで相次いで復飾願を出し、「新宮司」と呼ばれる春日社の神官として仕えることとなったり、一乗院および大乗院の門主は還俗し、それぞれ水谷川家,松園家と名乗った(奈良華族)。寺内から僧侶の姿が消えて空寺の状態となり、関係の深かった西大寺と唐招提寺に管理が任されることになった。1870(明治3)年の太政官布告では、興福寺の寺領は堂塔やその敷地のみを残して没収され、宗名や寺号を名乗ることも認められなくなってしまう。そして、主要な堂宇は学校や役所の庁舎に転用されたり、五重塔や三重塔は売りに出されたともいう。旧興福寺境内は、築地塀が取り払われて樹木が植えられ奈良公園となった。
明治10年代になると興福寺再興の動きも出て、1881(明治14)年2月に再興が許可された。1897(明治30)年6月の古社寺保存法の発布で北円堂,三重塔,五重塔が特別保護建築物に指定され、以降、各堂宇が修理・再建されていく。なお、太平洋戦争中には、旧国宝級の仏像,仏画,仏具などは疎開された。
中金堂は2018(平成30)年10月に再建された9代目で、後に東金堂,西金堂が建てられてからは中金堂と呼ばれるようになった。東金堂は1415(応永22)年再建で5代目、五重塔
は1426(応永33)年再建で6代目であり、現存する日本の木造塔としては東寺五重塔に次いで高い(高さ50.1m)。
仏像では、国宝の木造四天王立像,木造文殊菩薩坐像,木造四天王立像,木造十二神将立像,木造弥勒仏坐像,木造不空羂索観音坐像,銅造仏頭(旧山田寺仏頭)、そして、著名な阿修羅像を含む乾漆八部衆立像などを観ることができる。
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【史跡規模】
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【指 定】・国指定史跡:興福寺旧境内(1967年5月10日指定) 【国 宝】 gg<建造物> |
| 関連時代 | 飛鳥時代 | 奈良時代 | 平安時代:前期 |
| 関連年号 | 669年・672年 | 714年・4720年・744年 | 813年 |
| 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
| 中臣鎌足 | F001 | 鏡王女(鏡女王) | K301 | 藤原不比等 | F001 |
| 元明天皇 | K306 | 元正天皇 | K308 | 聖武天皇 | K308 |
| 光明皇后 | F001 | 藤原冬嗣 | F401 | 定昭 | **** |
| 隆禅 | **** | 平 重衡 | H107 |
中学生時代の修学旅行、そして1995年以来の拝観であったが、残念ながら五重塔は大規模修理中で2031年までは見ることができない。30年前の五重塔の写真(フィルム撮影)も残されているが、ここではネットから転載させていただいた。
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興福寺境内案内図(興福寺ホームページより)

興福寺の国宝の一部