浅谷城跡

あざかいじょうあと (Azakai Castle Ruins)

【C-AC185】探訪日:2020/6/5

【C-AC185】浅谷城跡  愛知県豊田市山谷町日向道下16

【MAP】

〔駐車場所〕

【C-AC185】浅谷城跡

   築城年,築城者は定かではないが、戦国時代には簗瀬九郎左衛門の居城であったと伝えられる。標高420m,比高40mの尾根端に築かれた足助七城の一つである。
 簗瀬氏は今川氏,松平氏から独立してこの地を治めていたが、1564(永禄7)年に松平家康の軍門に降った。1571(元亀2)年、武田信玄の三河侵攻の際には、足助城主の鈴木康重らと共に抵抗したが、周辺の諸城とともに落城した。次男の簗瀬信弘は、家康に反旗を翻した田峯城主の菅沼定忠の先鋒軍に捕らえられ、後に田峯の家老・城所道寿の娘婿となり、城所に姓を改め田峯に住んだ。1575(天正3)年の長篠設楽ヶ原の戦いにも武田軍として出陣したが、大敗した武田勝頼に従い城所道寿らと共に信濃国飯田辺りで離散し、やがて帰農して田峯に住んだという(姓を城所から柳瀬に改めた)。なお、1574(天正2)年の武田勝頼の三河侵攻で落城したともいわれる。城主簗瀬氏は戦で亡くなった多くの農民兵のために麓に万昌院を建立し、その菩提を弔った。
 城域は東西200m,南北120mと広く、本曲輪は東西25m,南北55mの矩形である。本曲輪の北には本曲輪を覆うように広い腰曲輪があり、その北東にさらに第3の曲輪がある。第3の曲輪は南北を堀切で遮断され外敵の侵入を防いでいる。また、本曲輪の南側には堀切と狭い物見曲輪があり、北西にある鶏足城の狼煙などの緊急情報を捉える場所であったと考えられる。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1564年・1571年・1574年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
簗瀬九郎左衛門 **** 松平元康 TG01 鈴木康重 SZ03
武田信玄 G432 菅沼定忠 G139 簗瀬信弘 ****
城所道寿 **** 武田勝頼 G432

 

【C-AC185】浅谷城跡
  

 

【C-AC185】浅谷城跡

浅谷城縄張図(『愛知県中世城館跡調査報告』に加筆)

 

<足助七城>

七城(七屋敷) 築城者・主な城主

足助鈴木氏時代の
足助七城

 

※真弓山城にこの時代の遺構が発見されず、下記範疇とされる

飯盛城 足助重秀・足助重朝・足助重方・足助頼方・足助貞親・足助重範・足助重政
真弓山城 鈴木忠親・鈴木重政・鈴木重直・鈴木信重・鈴木康重
黍生城 足助重長
城山城 (不明)
臼木ヶ峰城 中條全満
成瀬城 鈴木重次・鈴木重成・鈴木正三
大観音城 (不明)

戦国時代の
足助七城

真弓山城 鈴木忠親・鈴木重政・鈴木重直・鈴木信重・鈴木康重
浅谷城 簗瀬九郎左衛門
円山城(御蔵城) 鈴木高国・円山義清・鈴木高教・深谷金正
八桑城 鈴木甚五左衛門
安代城 原田源左衛門・原田種則
大沼城 木村安信・木村信元・松平近清・松平近正
田代城 森外記・松平主税(道久?)・松平甚五左衛門

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ここを入る 城址まで170mの看板 登り口すぐの堀切 案内に従って進む 腰曲輪 腰曲輪 本曲輪の南側を見る 本曲輪の北側を見る 本曲輪の南側 明治時代に建てられた城山八幡宮の碑 堀切の向こうに物見曲輪 堀切 堀切 堀切 堀切 物見曲輪 物見曲輪 物見曲輪 本曲輪から見下ろした神越川 北側へ向かう 本曲輪北側 堀切 堀切 堀切 堀切 堀切(登り口から見えた個所)