本多忠勝陣跡〔関ヶ原古戦場〕
ほんだただかつ じんあと〔せきがはらこせんじょう〕(Encampment Ruins of Honda Tadakatsu [Historic Battlefield of Sekigahara])
【B-GF001b03】探訪日:2026/4.19
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原3441-67
【MAP】
〔駐車場所〕
![]()
1600年(慶長5)年10月21日(9月15日)、東軍の軍監として約500の兵を率いた本多忠勝隊の陣跡である。陣は東の南宮山方面の西軍諸隊を牽制するとともに、福島正則ら豊臣恩顧の武将の諸隊と桃配山の徳川家康本隊の間に位置する。
当初は上田城攻略における対真田交渉を期待されていたが、途中、東山道の徳川秀忠隊を離れて東海道を進発することになり、対真田交渉は嫡男の忠政に引き継がれた。また、忠勝自身も加藤貞泰との交渉において活躍している。前哨戦ともいえる竹ヶ鼻城攻めや岐阜城攻めに参戦し、杭瀬川の戦いでは西軍の島左近に敗れた中村一栄隊と有馬豊氏隊の撤退を手助けした。また、吉川広家など諸大名に井伊直政と連署の書状を送って東軍方につける工作にも活躍した。
本戦が始まり、南宮山の西軍が動かないと見切ると、家康本隊の前進とともに自らも戦闘に加わり、わずかな手勢ながら90にも及ぶ首級を挙げた。また、午後には松平忠吉・井伊直政らとともに島津義弘隊を追撃している。
この功績により、1601(慶長6)年、伊勢国桑名10万石に移され、旧領・大多喜は次男の本多忠朝に別家5万石で与えられた。忠勝は、1610(慶長15)年10月18日に桑名で死去。享年63。臨終に際して「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず。主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という(略)」という言葉を遺している。
|
【史跡規模】
|
【指 定】 |
| 関連時代 | 安土桃山時代 |
|---|---|
| 関連年号 | 1600年 |
| 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
|---|---|---|---|---|---|
| 本多忠勝 | F526 |
![]()
![]()
<関ヶ原合戦 布陣図(開戦前)>

(現地パンフレットを一部編集)
<関ヶ原古戦場 関連史跡>
| 西軍(戦力総数:80,000以上) | 東軍(戦力総数:74,000~104,000) | ||
|
石田三成陣地・島左近陣跡・島津義弘陣跡・小西行長陣跡 |
桃配山(徳川家康最初陣跡)・床几場(徳川家康最後陣跡) |
||
| 傍観軍 |
吉川広家陣跡・安国寺恵瓊陣跡・毛利秀元陣跡 |
反応軍 | 脇坂安治陣跡・小早川秀秋陣跡 |
| 開戦地・決戦地 | |||
| 西首塚・東首塚 | |||