黒田長政·竹中重門陣跡/岡山烽火場〔関ヶ原古戦場〕

くろだながまさ・たけなかしげかど じんあと / おかやまのろしば〔せきがはらこせんじょう〕
(Encampment Ruins of Kuroda Nagamasa and Takenaka Shigekado / Okayama Signaling Ground Ruins [Historic Battlefield of Sekigahara])

【B-GF001b09】探訪日:1990/6.3・2026/4.19

【B-GF001b09】黒田長政·竹中重門陣跡/岡山烽火場 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原748

【MAP】

〔駐車場所〕岡山への登り口に駐車場がある。

   1600年(慶長5)年10月21日(9月15日)、関ヶ原戦場の最右翼となる岡山にある黒田長政と竹中重門の総勢約5,000の陣跡である。また、午前8時頃に開戦すると、攻撃の合図の烽火を上げた場所でもある。
 竹中重門は竹中半兵衛重治の嫡子であり、父同様、豊臣家に仕え、当初は西軍側として1600(慶長5)年の東軍による犬山城攻めでも城主・石川貞清を援助するが、井伊直政の仲介によって東軍に鞍替えする。そして、主たる東軍の武将同様、居城である菩提山城を徳川家康に提供している。
 また、関ヶ原一帯は竹中氏の所領であり、岡山(標高164m;通称を丸山)が松尾山・笹尾山・東山道(中山道)・北国街道などを一望でき、戦況を見渡せる場所であることを知った上での布陣と考えられる。ここを烽火場とし、本戦では幼なじみ(父同士は「両兵衛」と呼ばれた参謀)でもある黒田長政軍に合力した。
 黒田長政の父・孝高は織田信長に仕えていたが、荒木村重が反旗を翻した際に説得の使者として有岡城へ乗り込むが、説得に失敗し逆に拘束された。信長はいつまでも戻らぬ孝高を村重方に寝返ったと見なし、松寿丸(のちの長政)は処刑を命じた。しかし、竹中重門の父・半兵衛は密かに松寿丸の身柄を居城・菩提山城城下に引き取って家臣の邸に匿い、信長には処刑したと虚偽の報告をした。長政は、その後、豊臣家に尽くすが、秀吉死後は吏僚である石田三成や小西行長らと対立し、1599(慶長4)年の七将による三成襲撃事件にも参加している。
 1600(慶長5)年、長政は家康の会津征伐に従うが、去就に迷う武将らと交渉し、福島正則といった大名を東軍につけた。また、親戚でもあった平岡頼勝らを通じ、西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返り工作も行っている。
 本戦では、細川忠興・加藤嘉明・金森長近らとともに、笹尾山の石田三成を攻撃するが、島左近の奮戦により幾度も押し返される。長政は一隊を割いて笹尾山北側に迂回させ、石田隊の側面を攻撃、また長政家臣・菅六之助の銃撃で島左近を負傷させた。一進一退が続く中、正午頃に小早川秀秋が寝返り、西軍諸隊は総崩れとなった。黒田隊は東軍諸隊とともに、なおも踏みとどまった石田隊に最後の猛攻を仕掛け、これを壊滅させてついに勝負を決した。 
 黒田長政は、家康から御感状を賜り、関ヶ原の戦い一番の功労者として子々孫々まで罪を免除するというお墨付きをもらい、筑前国名島に52万3,000余石を与えられた。
 また、9月16日、徳川家康は近江に向けて出発するにあたり、竹中重門に米1,000石を与えて領地に迷惑を及ぼしたことを謝するとともに、戦場の死体を収拾して首塚を造ることや、損害を受けた社寺の修復を命じている。在地に留まった重門は、その間に伊吹山中に逃亡していた小西行長を捕縛し、近江草津に進軍していた家康のもとに送りとどけ、行長が帯びていた「光忠の刀」を改めて家康から下賜されている。

【史跡規模】

【指 定】岡山烽火場:国指定史跡(1931年3月30日指定
【国 宝】
【国重文】

関連時代 安土桃山時代
関連年号 1600年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
黒田長政 G767 竹中重門 G144 菅 六之助 SW2*


【B-GF001b09】黒田長政·竹中重門陣跡/岡山烽火場



【B-GF001b09】黒田長政·竹中重門陣跡/岡山烽火場

<関ヶ原合戦 布陣図(開戦前)>

(現地パンフレットを一部編集)

<関ヶ原古戦場 関連史跡>

【B-GF001b09】黒田長政·竹中重門陣跡/岡山烽火場 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

岡山の正面下のコンビニから見る 登り口 岡山からの関ヶ原(本多忠勝陣~島津義弘陣) 正面に松尾山(小早川秀秋陣営) 右が笹尾山(石田三成本陣)方向